2015年12月7日月曜日

【駆け出しのころ】村本建設取締役専務執行役員営業統括部長・久米生泰氏

 ◇雑用を通じて見える大切なもの◇

 父が大学の建築学科でコンクリート工学を教えていたため、子どものころは休みになると大学に連れていかれ、テストピースの圧縮強度試験などを見ていました。

 そんな私は大学で土木工学を学びましたが、所属していたのはコンクリートの研究室でした。就職先を決める時期が来て、志望する会社を教授に伝える前日のことです。同じ研究室の先輩であり、会社で役員になる前の村本吉弘社長が大学に来られ、直接に勧誘を受けました。それまでは別のゼネコンを志望しようと考えていたのですが、ぎりぎりまで悩んだ末、村本建設に入りたいと手を挙げました。

 10日間ほどの新入研修を受けた後、最初に配属された京都支店の現場では測量や丁張りのほか、支保工の仮設計算などを行いました。とはいえ、学生時代に支保工の計算などやったことがなく、最初はどうすればいいか分からず、苦労しました。

 その現場が配属されて1年半ほどで竣工を迎えた後は、現場勤務ではなく、積算や現場の技術支援などを行う土木工務の担当となりました。そこで上司から「とにかく雑用をやれ」と言われたのが強く印象に残っています。この数年間はいろいろな現場のことに携われたのが良い勉強になりましたが、同期の社員は現場で主任などになっていきましたから、どこか割に合わないという思いはありました。

 そうした時期を経て、新たに設置された技術部の課長に就きます。技術開発などを担う部署で、それから2年間、1週間のうち数日は大学に研究員として通いもしました。このころに学会活動などで社外の方々と交流できたことは大変貴重な経験でした。

 技術部の後輩たちには、現場に行く時は必ず作業着を持っていくよう言っていました。職人さんがやっていることをしっかり見ると同時に、実際に資材を持ち上げてどのくらいの重さがあるのかなども体験すれば、これは何人工といったことが自分の体で分かるようになります。書類や写真だけを見て判断するのではなく、自分で体験したことと、計算したものなどとを比べることが大切だと考えていたからです。

 仕事の問題点というのは、雑用を通していろいろと見えてくるものです。それを変えていくことで会社が良くなり、会社が良くなれば自分たちにもプラスとなります。かつて会社には大変厳しい時代があり、皆で一体となって乗り越えてきたことを、今の若い人たちは実体験として知りません。私たちがそれをうまく伝えていければ、何でもできる会社だと思っています。

 (くめ・たかひろ)1987年京大大学院工学研究科修了、村本建設入社。技術部技術管理課長、奈良本店土木部工事事務所所長、営業本部副本部長、取締役東京支店長、取締役常務執行役員経営企画室長などを経て11年から現職。鹿児島県出身、55歳。
1980年に学会で訪れたドイツの橋梁建設現場で

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