2016年6月10日金曜日

【若者よ、執念のものづくりを】鵤工舎・小川三夫棟梁が語る「宮大工1300年の技と伝統」

 法隆寺の「昭和の大修理」を指揮した伝説の宮大工・西岡常一の唯一の内弟子となり、今や寺社建築の第一人者と呼ばれる小川三夫棟梁が東京・王子の中央工学校を訪れ、木造建築科で学ぶ1、2年生を前に「宮大工の技と伝統」のテーマで講演した。

 小川棟梁は内弟子修行時代を振り返り、師匠と弟子のあり方、職人の心構え、技術・技能の習得方法を披露。

 「下手は下手なりに精いっぱいの心を込めれば、仕事は伝わる。古代の工人に恥じない執念のものづくりを行ってほしい」と生徒を叱咤(しった)激励した。

 内弟子修行で西岡棟梁から最初に言われたのは「これから1年は刃物研ぎだけをしろ」。

 □切れる刃物はうそをつかない□

手取り足取り教えてもらったことは一度もない。ただ一度だけ西岡棟梁がかんなを引いて手本を示してくれた。かんなくずは向こうが透けて見えた。そういうかんなくずが出るまで、研いでは削る、研いでは削るを繰り返した。最近になって刃物研ぎを1年やり続けた意味が分かった。

 「切れる刃物はうそをつかない」ということだ。昔は職人の仕事を「ばかではできず、利口ではできず、中途半端ではなおできず」と表現した。それほどに職人とは難しい仕事。下手は下手、上手は上手。言い訳しても通じない世界だから、真面目でひたむきな生き方をしないと人の心を打つような作品は作れない。それを学ぶのが修行だ。

 □黒いものも師匠が「白」と言えば白□

弟子の時代は自分自身を持っていたら苦しい。自分を捨て、師匠に合わせないといけない。師匠が「カラスは白い」と言えば、白く見えないといけない。カラスは黒と言うようでは修行にならない。親方に白く見えるなら、弟子も白く見えるように努力するべきだ。白く見えるようになれば幸せになる。親方と同じようにものを考えることができる。

 自分を持つのは、修行を終えて独立してから。西岡棟梁が書いてくれた額には「鵤工舎の若者に告ぐ、親方に授けられるべからず 一意専心 親方を乗り越す工風を切磋琢磨(せっさたくま)すべし これ匠の道の心髄なり。心して悟るべし」とある。自分が独立してから、親方を乗り越える工夫をすればいい。

 □軽い「げんのう」で数を打て□

 宮大工には「軽い『げんのう』で数を打て」という言葉がある。くぎは何度も打たれて入っていくから摩擦が生まれて抜けない。機械で一瞬にして打ったくぎは一つの抵抗しか受けていないからすぐに抜ける。

 道具は人間がものづくりをするための腕の延長だ。手の力を用い、手の技術で使いこなすものを「手道具」という。今の時代は手の力で動かさず、電気の力で動かす仕事が多い。

 手の動きを失った技術からは職人の技は生まれにくい。手道具を十分に使いこなした人が電気道具を使えば、120%の性能を発揮する。電気道具だけで仕事を覚えたら、80%ぐらいしか性能を発揮しないだろう。それは原理が分かっていないからだ。

 □執念のものづくりをせよ□

 切れる道具を持てば、道具に恥じる仕事はしなくなる。そういう道具を持たないから手を抜くことを考える。今も昔も「執念のものづくり」をしないといけない。工作技術でものをつくってはいけない。工作技術でものをつくったら、出来上がりはそれでよしとするだけだ。「執念のものづくり」をした人は出来上がったものに何らかの不満が残る。その不満がもっとやる気を起こす。

 「執念のものづくり」を教えることはできない。本人が感じ取るしかない。西岡棟梁が晩年に「煎じて煎じて煎じ詰めれば最後は勘」という話をしてくれた。勘やこつというものは言葉で直接伝えることはできない。技を得ようとする人は結局、自らの練習と努力で自分のものにしていかなければならない。

 技術や技能を学ぶことにとらわれるな。始まりは知恵で、そのことを言葉にしたのが知識。直接感じるものが知恵で、伝えて伝わるものが知識。技を自分のものにするには知恵であって知識ではない。もし知識だけで東大寺にあるような大きな柱を立てようとしても絶対に立たない。知恵と技がなければできない。知識以上のものはできないが、知恵というのは限りなく湧き出す。知恵を働かせなければいけない。

 □うそ偽りのあるものを残すな□

 法隆寺を修理する人は法隆寺を作れる人でないと駄目だ。作るだけの力量がないと、いにしえの工人がどのように作ったかが分からない。多くの新築を体験し、気付くようになればいい。今できることを精いっぱいやることが大切だ。次の世代の人のためにうそ偽りのあるものを残してはいけない。下手は下手なりでいい。うそ偽りはないと自らに言い聞かせ、精いっぱいやっておけば、何百年か先に建物を解体した時、「平成の大工」の思い、考えを読み取ってくれる人が現れる。本物とはいつの世でも変わることなく心を打つものだ。その時々に精いっぱいのことをしておけばいい。

 (おがわ・みつお) 1947年栃木県矢板市に生まれる。高校の修学旅行で法隆寺五重塔を見たことがきっかけとなり、卒業後に法隆寺の宮大工・西岡常一棟梁の門をたたくが断られる。仏壇屋などで修行した後、22歳で西岡棟梁に許され、唯一の内弟子となる。

 生前、西岡は小川を評して「たった一人の弟子であるけれども、私の魂を受け継いでくれてると思います」と述べている。法輪寺三重塔、薬師寺金堂、薬師寺西塔(三重塔)の再建で副棟梁として活躍。1977年に徒弟制を基礎とした寺社建築専門の建設会社「鵤(いかるが)工舎」を設立した。

 弟子の育成とともに、国土安穏寺、国泰寺ほか全国各地の寺院の改修、再建、新築などに当たる。

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