2016年9月26日月曜日

【建設業の心温まる物語】センチュリー工業(神奈川県)吉浜秀昇さん/父が作った東京オリンピックの体育館

 私の父は、大工の棟梁でした。父は、中学校を卒業してすぐに大阪に行き親戚の家で大工の修行をしていました。そして二十歳過ぎに地元横浜に帰ってきて会社を興しました。当時は、高度経済成長中のため仕事は順調で、そのころ母と結婚したそうです。

 それから数年後、姉や私が産まれました。しかし私が物心ついたぐらいの時に、父はなぜか大工を辞めてしまいました。

 それから数年経ち、祖父の家で、バレーボールの試合をテレビで見ていると、この駒沢オリンピック公園総合運動場体育館の床は、お前たちのお父さんの会社が床を貼ったんだぞ、と叔父さんが言いました。私は嘘だ、と思いました。そんな話を父から聞いたことがなかったからです。叔父さんは、その仕事の手伝いに行っていたようで、そのころの話を詳しくしてくれました。

 「当時はまだ横浜から東京までは道が悪く、舗装が全くない状況で通うのが大変だったんだ。でも、東京オリンピックまでに完成させなければならなかったから一所懸命に仕事をしたんだ。お前たちのお父さんは大工棟梁として活躍していたな」

 父が大工だったのは知っていましたが、こんな大きい体育館の工事に携わっていたとは思ってもいませんでした。母からは、「近所のあのおうちはお父さんが建てたのよ」などと聞いていましたが、東京オリンピックの会場となる体育館の工事に携わっていたとは驚きました。

 大人になり、父の影響もあって建設業土木の道に進みましたが、いまだに父ほどの世間に知れ渡る大きい構造物には携わっていません。面と向かっては言えませんが父を誇らしく思っています。

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