2018年4月16日月曜日

【駆け出しのころ】東亜建設工業執行役員技術研究開発センター長・青野利夫氏

 ◇興味を持ち適応範囲広げる◇

 大学で助手を7年ほど務めましたので、私は30歳を超えて入社したことになります。教授から「いい会社がある」と紹介していただいたのが東亜建設工業でした。

 入社して最初の2年間は茨城県内の現場に勤務しました。1年目は造成工事、2年目は港湾工事です。現場に初めて出た日、新入社員の私に付いてくれた先輩から、測量のトランシットを据え付けるよう指示された時のことです。大学でもやっていたのですが、それはキャンパス内の平たんな場所でのこと。ところがここの現場では沼地のような軟弱地盤の上にセットしなければいけず、全く勝手が違っていました。

 結局、30分ほどたってもできず、その日の夜は悔しくて眠れなかったのを覚えています。先輩はおそらく、鼻っ柱の強そうなヤツが入ってきたので、まずは試してみるかと考えられたのだと思います。この先輩には大変お世話になり、現場で大切なことをいろいろ教えていただきました。

 2年目の現場では、働きながら学位論文を書きました。一日の仕事を終えると夕食と入浴を済ませ、それから現場事務所に戻り、夜11時ごろまで勉強していたでしょうか。そして宿舎で朝早くに起き、まず海の状況を見に行く。こうした日々が続きました。

 運輸省(現国土交通省)港湾技術研究所水工部に科学技術特別研究員として出向した経験もあります。この後、会社で技術研究所の数値解析室長となります。室長といっても部下は誰もおらず、ひとりだけでの仕事でした。紙と鉛筆とコンピューターはありますが、コンテンツがない。でも何かをやらなければならない。このため他の研究室に「こちらでプログラムを作るので」と頼んで解析業務をやらせてもらうなどしていました。そうしてコンテンツがたまってくると、いろいろな依頼が来るようになっていきました。新人時代の現場勤務に加え、港湾技術研究所への出向とこの室長の時の経験が、今の自分につながっていると思っています。

 仕事でやりがいを感じるのは、相手が喜んでくれた時です。言い換えるなら、相手が喜ぶことをしたい。そう考えてきました。マネジメントを行う立場になったころは、そんな思いでいろいろな仕事を引き受けてくるので、部下からは「何でこんなにいっぱい取ってくるのですか」と言われたものです。

 若い人から「やったことがないのでできません」と聞くことがあります。でも、これでは自分の幅が広がりません。より幅広い知識を身に付けていくことが必要であり、経験のないことでも興味を持って取り組み、自らの適応範囲を広げていってほしいと期待します。
 (あおの・としお)1982年中央大学大学院修了、同大理工学部土木工学科助手。89年東亜建設工業に入社し、技術研究所数値解析室長、土木事業本部エンジニアリング事業部防災事業室課長、同本部設計部次長などを経て、17年4月から現職。東京都出身、60歳。

出稿していた当時に開かれたワークショップで
(1994年、左側が本人)

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