2018年8月20日月曜日

【駆け出しのころ】日本工営代表取締役専務執行役員・秋吉博之氏

 ◇苦しくても「笑い」のある仕事を◇

 大学に進む時は医学や建築の道も考えましたが、最後は就職に有利といわれていた機械工学を選びました。日本工営を就職先に決めたのは、電力事業を手掛けていて、大学で学んだことを生かせると思ったからです。

 「海外で働いてみたい」と考えていた時、日本工営が海外で行う仕事の評価が高かったのを雑誌で見たこともありました。入社後に知ったのですが、創業者の久保田豊は旧制熊本中学(現熊本県立熊本高校)出身。母校の大先輩です。

 1979年に入社し、希望通り海外事業本部に配属されました。社内報の新入社員紹介欄で「日本、世界そして宇宙へ」と夢を語っています。実務を経験しながら、さまざまな専門分野から若手技術者が集まった部署で技術開発も担当しました。皆が情熱を傾け、最先端の電算プログラムなどの開発に取り組みました。

 最初の現場はネパールのクリカニNO.1水力発電プロジェクトの工事監理でした。山奥で電気はすぐ消え、食堂も丸太小屋。インド人の作業員が水圧鉄管の工事を手作業で行いました。6年間は主に海外で水力発電プロジェクトに携わりましたが、過酷な環境を体験したおかげで、どこに行っても苦になることはありませんでした。ただ、ビルマ(現ミャンマー)のバルーチャンNO.1発電プロジェクトの工事監理の時は周辺にゲリラがいて、銃を持った護衛の兵士3人が付き添う中で現場に通ったのは怖い思い出です。

 海外では、途上国のエンジニアから「日本の最新の技術を教えてほしい」とよく言われました。しかし考えてみると、その頃は日本の技術のことをあまり知らなかったのです。技術指導に携わる身としてこれは恥ずかしいことだと思い、勉強の必要性を痛感しました。管理職から厳しい指導を受けながら、技術論文や参考書とにらめっこする日々が続きました。

 30代に入ってからは国土交通省所管の協会で、水門の故障診断システム、遠隔監視制御、堰への油圧技術の活用、機械設備積算基準の改訂といった最新の課題に関する仕事も担当し、その協会の幹部から厳しく鍛えられました。

 海外、国内、電力エンジニアリングの三つの基幹事業を社歴の3分の1ずつ経験してきました。人や技術を幅広く知ったことが、現在手掛ける国内の小水力発電開発や、英国で取り組み始めた蓄電池事業への挑戦に生きています。

 後輩や若手の社員には、既成の基準をただ受容するのではなく、新たな課題にチャレンジし、基準を変革するくらいの気概を持って取り組もうと話しています。「自分の今」に謙虚になり、常に自分を変える勉強に励んでほしいと思います。勉強する年齢に遅すぎるということはありません。もうひとつ、人と楽しく、苦しくても「笑い」のある仕事をすることが他者との連携を成功させるには重要だとも話しています。

 (あきよし・ひろゆき)1979年九州大学工学部機械工学科卒、日本工営入社。2010年執行役員、12年から取締役と兼務、15年常務執行役員、16年専務執行役員、17年から現職。熊本県出身、62歳。

最初の現場となったネパールの水力発電所で仲間と共に

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