2018年11月26日月曜日

【駆け出しのころ】名工建設取締役常務執行役員建築本部長・里川幸夫氏

 ◇原寸の目と500分の1の目で見る◇

 入社後、最初に配属されたのが名古屋市内の住宅工事の現場でした。工事途中からの担当で、どう管理すればよいのかなど、何も分かりません。先輩方に言われるままに掃除と片付け、墨出しといった“汗かき仕事”ばかりをしていた記憶があります。

 数カ月間その現場に勤務し、次に担当したのが県外の宗教団体施設の工事。著名な建築家が設計し、その建築家の仕事ができるということだけで、ワクワクしました。基礎の杭打ちから加わり、最初は鉄筋の管理を担当しました。施工図を何枚も描き、協力業者の方々に施工をお願いし、管理する。やっと現場監督らしい仕事ができたと喜んだものです。

 ある日、所長に呼ばれ、本館脇に造る地下2階建ての付属棟を「一人でやってみろ」と言われました。水槽のような形状で、地上に出ているのは小さな入り口だけ。完成後は電気・機械設備などが配置される施設でした。入社2年目に入るころで、付属棟といえども任されたことがうれしくて、土留めのための土圧計算の書物を買ってきて一人で勉強しながら、計画から図面、施工とすべてをやり遂げました。人が往来する施設ではありませんが、建築物を造ったという達成感がありました。

 現場勤務で最も印象に残っているのが27歳の時に担当した地下1階地上3階建ての個人病院でした。当時、コンクリートの打ち放しの建物が流行し、その病院もそうした設計でした。狭い敷地に地下部分を造り、きれいなコンクリート壁面を構築していく。工期を守るのが精いっぱいで、仕上がりや品質までなかなか手が回らず、周囲の人たちに迷惑を掛けたと、今でも申し訳なく思っています。

 特に苦労したのがコンクリートで「ピン角」と言われるとがった建物の角の形状をどう作るかでした。それを実現するため、バイブレータだけではなく、長い竹を買ってきて、現場にいる人たちみんなで型枠内のコンクリートを突き、満遍なく行き渡るようにし、「ピン角」を造りました。

 現場には約20年勤務しましたが、どの現場も苦労の連続でした。施主や設計事務所の方々との折衝、協力業者や周辺住民の方々とのコミュニケーションの取り方など、丁寧に対応しなければならないものばかりで、忍耐力だけは養われた気がします。この業界ではよく使われますが、建築の仕事は「二つの目」が必要です。一つは施工上で求められるミリ単位の「原寸の目」。もうひとつは全体を俯瞰(ふかん)して見る「500分の1の目」。この両方の目で見ることで、良い建築物ができると思います。

 若い技術者には困難な課題が出てきても、逃げずに立ち向かってほしい。それが個人の技術力を高め、人間としての成長にもつながるはずです。三洋電機の後藤清一元副社長(故人)の本に「何も咲かない冬の日は下へ下への根を伸ばせ」という言葉が書かれています。現場では苦労の連続かもしれませんが、それはその人の“根”を伸ばす時期です。そう思って若い技術者には頑張ってほしい。

 (さとがわ・ゆきお)1979年名古屋工業大建築学科卒、名工建設入社。09年執行役員建築本部建築部長、10年同北陸支店長、13年取締役執行役員建築本部長を経て14年から現職。三重県出身、61歳。
30歳の頃、海外洋上研修での1枚

0 コメント :

コメントを投稿