2019年3月4日月曜日

【中堅世代】それぞれの建設業・222

安心して暮らせる家づくりのために奮闘し続ける
 ◇お母さんのような大工になりたい◇

 大工職人の樋口舞さん(仮名)が建設業界に飛び込んだのは、東日本大震災が起こった時、子どもを連れて避難所で暮らしたのがきっかけだった。余震におびえるわが子を抱きしめながら頭に浮かんだのは「家族が安心して暮らせる壊れない家を作りたい」という思い。前職は販売員で建設業界と無縁だったが、一念発起して地元の福島県を離れ、新天地で奮闘し続けている。

 震災では住んでいたアパートが半壊し、小学校の施設で避難生活を送った。子育て中の人が特別教室の一部に集まり、協力し合いながら部屋を作った。子どもたちが安心して遊べるような空間を作るため、自ら率先してマットを調達。子どもの声がうるさいと敬遠していた人に声を掛け続けていると、いつの間にか「子どもの元気な姿は癒やされるね」と言われるようになった。

 大工の親方に出会ったのは半壊したアパートを修繕していた時。親方は同郷の出身で、首都圏を中心に一戸建て住宅を手掛ける工務店の社長だった。畳下地の合板の張り替えや、手すりの修繕など黙々と仕事をする姿に亡くなった父親のような頼もしさを感じ、自然と声を掛けていた。

 被災し職を失った上、シングルマザーとして子どもを育てなければならない。そんな不安を口にすると「それならうちにおいで」と背中を押してくれた。子どものころ小遣いをやりくりして自分の部屋を飾り付けるのが好きで、手先の器用さにも自信があった。「手に職を付けたい」。大工の道へ進むことにためらいはなかった。

 弟子入りして5年で、やっと一通りの仕事をできるようになってきた。大工の仕事は朝が早く夜も遅い。夏の暑さや冬の寒さは体にこたえる。駆け出しのころは1日が終わると、歩けなくなるほど体の節々が痛くなった。何度も失敗を重ね、長さ2メートルほどの重い石こうボードを一人で天井に張れた時は、うれしさのあまり涙がにじんだ。

 女性ならではの強みを感じることもある。ある朝、現場周辺の道路を掃除していると、施主の女性から声を掛けられた。話を聞くと自宅を建て始めてから、親の介護が現実味を帯びてきたという。細かく話を聞きながら手すりの位置を調節し、できるだけ段差をなくすように室内の仕様を変更した。「男性の職人さんには怖くて声が掛けにくかった。あなたがいてくれて良かった」と言われ、大工という仕事のやりがいを実感した。

 2年前、中古で自宅を購入した。新築の購入は無理でも、中古なら自分で思うようにリフォームできる。親方に手伝ってもらいながら、ほとんどの工事を2人でやり遂げた。力を入れたのはキッチンと子ども部屋。庭には念願のウッドデッキを作った。

 4月から中学生になる娘に「将来、お母さんのような大工になりたい」と言われた。この言葉を聞いた時、今の仕事を選んで本当に良かったと思った。

 東日本大震災から間もなく8年。今でも被災当日の夜を思い出すことがある。電気のない暗闇の中で星が瞬く空を見上げた。絶望のただ中にいても希望の光はある-。福島に安全な家を作るのが夢だ。

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