2019年4月8日月曜日

【駆け出しのころ】パシフィックコンサルタンツ代表取締役専務・大本修氏

 ◇自分を変えていく努力を◇

 大学で土木を専攻し、橋梁の耐震工学を勉強した。土木技術者になることに迷いはなく、鴻池組に就職。入社後に配属された土木本部第一技術部では研究開発や現場の支援、技術営業のための資料作成などが主な業務だった。

 例えば海底シールド工事が魚介類に与える影響を調べるため、ボートの上で振動測定を行ったり、トンネル掘削の3次元効果を表現できるように有限要素法(FEM)のプログラム開発をしたり、現場や営業から要請があれば何でも担当した。いろいろな仕事ができて楽しいと思う半面、同じ部署の同期が大学での研究を継続し、最前線で活躍する姿を見て自分の存在価値は何だろうと自問していた。

 33歳の時、何か自分の強みを作りたい。そんな思いから技術士資格の取得に取り組んだ。当時、子どもが小さく、自宅では勉強ができないため、週末は図書館に一日中こもり、ひたすら机に向かった。そのかいあって一発で合格した。

 技術士を取得して1年後に阪神淡路大震災が発生。被災地の復旧作業に一時携わった。現場に出ると、「ゼネコンは現場が主役。しかし自分には現場経験がなく、サポート役でしかない」と改めて痛感した。同時に地震で多くの土木構造物が倒壊したのを目の当たりにして「設計が大事だ」と思い、建設コンサルタントへの転職を決意した。

 当社に入社し、配属されたのは地盤技術系の部署。ゼネコンでの経験を生かした新たな仕事にチャレンジしたかった。そんな中で担当したのが大阪港夢咲トンネル工事の支援業務。当社が夢洲側アプローチ部の設計を行い、鋼管矢板・切梁工法の情報化施工をサポートした。人工島埋め立て直後の超若齢地盤の大規模掘削を行うため、鋼管矢板や地盤内にセンサーを設置し、工事中の挙動を確認・分析しながら施工を支援した。建設コンサルタントとゼネコンが連携し、難工事を無事に完成させた好事例だと自負している。技術者としての自分の存在価値も示せたと思う。

 50歳で管理部門に移り現場の第一線から離れた。これまでを振り返ると、一人前の技術者になりたい、そんな思いで長年仕事をしてきたが、いまは全く違う仕事をしている。組織の中ではやりたい仕事がいつもできるとは限らない。ただ、どんな仕事でも前向きにとらえ努力を忘れずにきたつもりだ。それが今の仕事にも役立っている。

 若いころ、現場を見ずに載荷試験の計画を立て、現場に行くと状況が違っていて周囲の人たちに迷惑を掛けたことがある。若い技術者にはまず、実際の現場を見る、知ることから始めてほしい。また、日頃から好奇心と冒険心を持ち、失敗を恐れずにチャレンジする。何事にも安住することなく、日々自分が変わっていく、周りも巻き込んで変えていく。そんな気持ちを持ち続けてほしい。

若い頃は「一人前の技術者になれるだろうか」と自問していた
(おおもと・おさむ)1986年京都大学大学院工学研究科交通土木工学専攻修了、鴻池組入社。96年パシフィックコンサルタンツ入社。2016年取締役、17年常務、18年10月専務(危機管理担当、事業推進担当、働き方改革担当)を経て同12月から現職。愛媛県出身、58歳。

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