2019年8月5日月曜日

【中堅世代】それぞれの建設業・233

学生時代は野球一筋だった
 ◇人事異動を成長の糧に◇

 「なんで俺が人事部に…」。建材メーカーで働く小林直哉さん(仮名)は、予想だにしなかった部署への異動を上司から伝えられた時、がくぜんとした。当時は入社5年目の営業マン。営業がやりたくて入社した。クレーム対応など大変なことも多かったが、充実した日々を過ごしていた。それが突然人事部行きを命じられ、やる気をなくした。「3カ月くらいは死んだ魚のような目をして仕事をしていた」。

 中学、高校、大学と野球漬けの日々を送った。入社したての頃は仕事の大変さより野球の練習をしなくていいという開放感の方が勝った。「もう走らなくていいと思うとすごく精神的に楽だった」。“五月病”とはまったく無縁の新入社員。最初に配属されたのは大手の需要家をターゲットに営業する部署だった。全国から入るクレームに対応するため出張も多かった。「誠心誠意対応した。最後に問われたのは、いかに信頼される人間になるかという『人間力』だった」と振り返る。

 仕事に対する情熱を失った中でスタートした人事部での業務。消化しきれないモヤモヤした思いを抱えたままの自分に「小林、慣れない仕事で大変だろう」と声を掛けてくれる上司、サポートしてくれる同僚がいた。人事部で任された業務は採用活動がメイン。「学生に会社を知ってもらうのは営業で商品をPRすることに似ていた」。採用活動に面白みを感じるようになり、失っていた仕事への情熱が少しずつ高まっていった。

 人事部で8年を過ごし、次に配属されたのが経営企画部だった。正直、何をやったらいいか分からなかった。ルーティンの仕事はほとんどない。何もせずに一日が過ぎていく時もあった。悩むことが多くなり、朝起きると「仕事に行きたくねぇなあ」という思いが頭をよぎることも。転機になったのは異動して2年目に携わった中期経営計画の策定だ。年次が一番下で不慣れなこともあったが何とか完成させた。実際に中期経営計画というアウトプットができたことで達成感を得た。

 経営企画部に3年在籍し、次に広報部行きを命じられた。異動して最初は大阪本社に勤務。2年目になると東京に広報部をつくることになり、立ち上げメンバーに選ばれた。新聞社やテレビ局などマスコミに電話をしてあいさつに行き、取材してもらう。基本的な動き方は顧客の新規開拓と似ていた。営業部での経験が生きた。同じく役立ったのが経営企画部での経験だ。「社内の人脈ができていた。取材をアレンジする際、取材対象者と直接やりとりができる」。広報部に来て7年が過ぎた。

 振り返ると全く予想だにしなかった異動の連続だった。最初に経験した営業から人事への異動は、「どんな部署でもやっていく」と思えるようになったきっかけだった。異動を重ねるたびに自分も成長した。今の部署の在籍年数を考えると、いつ異動を命じられてもおかしくない。「営業部に行けと言われたらちょっときついかも」と苦笑いする。

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