2020年5月26日火曜日

【駆け出しのころ】東亜道路工業取締役専務執行役員・杉崎匡孝氏

 ◇変革期を生き抜くすべ考える◇

 子供のころは砂利道が多く、舗装で道がきれいになっていく光景に感動したのを覚えています。映画で建設の世界に憧れました。「黒部の太陽」で土木に、「超高層のあけぼの」で建築もいいなと思いましたが、閉所・高所恐怖症の自分がやっていけるのかと悩みました。

 大学の卒業研究テーマは透水性舗装。東亜道路工業の技術研究所で研究させてもらった縁もあって入社することになりました。研究職にも面白みは感じていましたが、それより現場に出て施工を担当したいという思いが強かったです。

 入社後、東北支社の秋田工事事務所に配属されます。生まれも育ちも東京だったため、言葉の面でカルチャーショックを受けました。笑い話ですが、朝礼で所長から「みずかけろ」と言われて何のことやら分からず悩んでいると、先輩がカセットデッキのボタンを押しました。どうやらラジオ体操で流す音楽(ミュージック)をかけることだったようです。

 最初は山奥の農道・林道整備に携わりました。先々に集落が点在し、道が整備されると集落の方々がごちそうを振る舞ってくれました。その後は秋田都心部の都市計画道路の現場を担当。測量のミスで迷惑を掛けたこともあり、きちんと確認することの大切さなどを学びました。

 宿舎での集団生活は自由な時間はなかったですが、多世代の人たちとの暮らしは新鮮で楽しかったです。地元の言葉も覚え、コミュニケーションの取り方などを学べたほか、お酒が入ると、普段聞けないような話もいろいろ聞けました。

 2年の秋田勤務を経て東京に転勤。羽田空港の誘導路改修工事に携わります。秋田でほとんどなかった夜間作業の毎日。規模も大きく、秋田とは違った意味でショックを受けました。空港だから作業時間に制限があり、緊張感の中で大変な日々が続きます。明け方に作業を終え、せきを切ったように飛行機が滑走路を離着陸する光景は目に焼き付いており、自分たちの仕事が社会に役立っていることを実感し、責任とやりがいを感じました。

 その後、多摩営業所に移ってニュータウン関連の都市計画道路のほか、学校の外構やテニスコートなどの整備に関わりました。公共と民間の仕事で求められるものは異なりますが、相手の気持ちになってどこに集中して造ればいいかを考えることが大切です。

 仕事をする上で、自分がやりたいこと・できること・やらなければいけないことを見定め、それぞれのバランスをうまく取ることは難しい。若い人たちには人の話をよく聞き、勉強して知識を蓄えながら、変革の時代を生き抜くすべを考えてほしいです。

多摩営業所に勤務していた入社14年目ころ。
社内のテニスサークルでの一枚
(関東支社長、すぎざき・まさたか)1981年日本大学理工学部交通工学科卒、東亜道路工業入社。東北支社長や関東支社長(現任)などを経て2020年4月から現職。東京都出身、63歳。

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