2020年6月29日月曜日

【駆け出しのころ】戸田建設常務執行役員建築営業統轄部長・深代尚夫氏

 ◇自ら動き輪を広げる◇

 祖父の代から木造建築の請負業を営む家の長男として、地元の工業高校の建築科を卒業して親の跡を継ぎ、大工になるストーリーがなんとなく決まっていました。高校時代に見た映画「超高層のあけぼの」が心に残り、超高層ビルに携わってみたいという気持ちが膨らみ、大学に進学させてもらいました。

 就職活動の時期を迎えゼネコンで働きたいと思うようになっていましたが、世の中は第2次オイルショックのさなか。就職難の中、運と縁があって戸田建設への入社が決まり、入社前に届いた手紙で九州支店への配属を知ります。最初の1年はほぼ研修で技術者としての基礎を身に付けるため、積算や施工図の作成などに取り組みました。

 初めての現場勤務は竣工前の応援として3カ月ほど配属された大手メーカーの工場でした。朝から晩まで休む間もなく、若手ながら体力的にきつかったです。近くの農家での合宿のような暮らし。作業所長と同部屋でしたが、学者肌でアカデミックな雰囲気を持つ所長には、多くのことを理論的に教えていただきました。

 その後は2年間、長崎大学の施設整備で2現場に携わります。発注者側の監督官にも配筋検査などで厳しく指導してもらい、現場技術者としての基本を学びました。豚骨ラーメンや芋焼酎など赴任当初は苦手だった九州の食べ物も好きになり、4年目に名古屋支店へ異動する時は去りがたい思いがありました。

 38歳まで名古屋支店が管轄する各県の現場をあちこち巡ります。中でも名古屋パルコは延べ約2万坪、タワークレーンが5台ほど入る大現場で、忙しさの極みのような現場でした。

 世界デザイン博覧会の開催と重なり、労務調達の厳しさに加え、テナントのレイアウトが決まらず、工程が後ろ倒しになります。既に開業日は発表され、地元の人たちに心配されるほど。それでも厳しい作業所長の指揮の下、「負けてたまるか」という反骨精神で何とか間に合わせることができました。弱音を吐かず、「目の前のトラブルから逃げるな」と叱咤(しった)激励してくれた所長がいたからこそ、難局を乗り越えられたと思います。

 結局、超高層には携わらないまま営業部門に移ります。大所長を目指していたのですぐには受け入れられません。大学時代の恩師から「営業を天職だと思え」と諭され、会社も自分を営業で必要としているのだと腹を据えました。

 名古屋、関東、名古屋、広島と回った後、みたび名古屋に支店長として戻ります。現場時代の社内外での出会いが、営業でもいろいろな形で自分を助けてくれました。受注が難しい案件でも最初から諦めず、動いてチャレンジする。相手を思う利他の心も大切です。コロナ禍で対面は難しくなっていますが、自ら動いて多くの人たちとの輪を広げることが、どんな仕事でも基本だと思います。

入社5年目、福岡・博多祗園山笠での一枚
(ふかしろ・たかお)1979年明治大学工学部建築学科卒、戸田建設入社。執行役員名古屋支店長などを経て2019年から現職。群馬県出身、64歳。

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