2020年10月19日月曜日

【駆け出しのころ】竹中土木取締役専務執行役員営業本部長・岩田充弘氏

 ◇人のつながりがいい仕事に◇

 デスクワーク中心の仕事が嫌だったこともあり、入社後はとにかく現場に出ることを希望しました。1年目は研修期間として下水処理場、東北新幹線の現場などで勤務。2年目にいきなり沖縄北部の山奥にある安波ダムの現場へ異動しました。

 街中での暮らしに慣れた自分にとって、周りに何もない場所での暮らしは想定外。ハブに職人がかまれたから気を付けろと脅かされ、十数人が一緒に寝泊まりする大部屋で体をはい回る虫に何度も起こされる毎日。こんなところでは暮らせないと、上司に退職の意思を伝えると「他のJV関係者にも迷惑が掛かるから1年は頑張ってみろ」と諭されました。

 人というのは面白いもので、あれだけ嫌悪していた現場暮らしも仕事を覚え環境に慣れてくると、楽しく感じるようになります。5年の長期勤務となり、自社だけでなくJVメンバーの方々とも現場内外での交流が深まりました。

 その後、建設省(現国土交通省)の土木研究所に2年余り出向し、会社に戻ってから四国横断自動車道のIC関連工事と阪神高速道路の現場にそれぞれ2年ほど勤務しました。30代半ばに再び沖縄へ戻り、JVスポンサーの技術者として金城ダムの現場に立ちました。この間の勤務地はすべてJVサブの現場。施工管理や現場の雰囲気はスポンサー企業によって特徴があり、各現場で多くを学びました。

 入社16年目から担当したのは神戸市内に現場があった長田箕谷線の街路築造工事。工事主任、作業所長として4年半ほど携わり、最も忘れがたい最後の現場勤務になりました。工事の半ばで阪神淡路大震災が発生。現場事務所に連絡が付かず、泊まっていた若手の安否も分かりません。大阪・豊中の自宅から自動車で普段は1時間も掛からない道のりも、通れる道路を探しながら半日掛けて現場に向かいました。

 仮設の事務所の中は物が散乱していましたが、幸い若手にけがはなく、現場自体も目立った損傷はありませんでした。ライフラインが寸断され一番困るのはトイレ。現場にあった散水車に近くを流れる川の水をため込み地元の方々に配りました。

 民家に近接した現場のため、地元から厳しい声もありましたが、震災の大変な時期を一緒に乗り越え工事への理解が深まりました。移動用のバイクを大阪から持ち込み、市の関係者との協議を重ねて被災1カ月後には工事を再開することができました。

 現場に限らず独りよがりでいい仕事はできません。人と人とのつながりがいろいろな場面で生きてきます。若い人たちには、一つ一つの体験や出会いを大切にしてほしいと思っています。

30代半ばに勤務した沖縄金城ダムの現場事務所で

 (いわた・みつひろ)1977年鹿児島大学工学部海洋土木開発工学科卒、竹中土木入社。執行役員経営戦略室長や常務執行役員大阪本店長などを経て2018年3月から現職。大阪府出身、65歳。

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