2020年8月17日月曜日

【駆け出しのころ】IHIインフラ建設取締役橋梁事業部長・笠坊英彰氏

  ◇粘り強く最後までやりきる◇

 小学生の頃、今では考えられませんが、新聞記者だった父の勤務先はどんなところだろうと夕刻に訪問し、2人で東京から横浜の自宅まで帰ることが度々ありました。車で高速道路を通るたびに、深夜にもかかわらず都心部や工場地帯を高架橋で縦横無尽に行き交うことができる道路網に感動し、同じようなものを自分も造ってみたいと思ったのが、建設に興味を持ったきっかけでした。

 就職活動の時期が造船不況と重なり、大手重工メーカーで唯一求人のあった川崎重工業の試験を受けて入社。技術開発部で明石海峡大橋の主塔の空力的制振試験を担当しました。その後、ものづくりの世界を肌で感じたいとの思いから3年目で退社を決断。採用活動をしていた石川島播磨重工業(現IHI)に縁あって入ることができました。

 新天地では横浜の橋梁事業部設計部に配属され、高速道路の詳細設計を主に担当しました。分からないことだらけで基本は「自分で考えろ」の職人かたぎの世界でした。さらに、IHIには「設計に始まり、設計に終わる」という言葉があります。ものづくりに必要な製品、据え付けのスペック決めの要を担い、調達業務の帳票発行部門として責任が課せられます。製造部、建設部とも深く連携して問題を解決することが常態化し、業務は過酷でしたが、こうした取り組みが自身のエンジニアリングの基礎になったと思っています。

 壁にぶつかった時は誰かが決断して前に進まなければなりません。設計部門がかじ取り役を担っているのであれば、責任を持って最後までやり抜くしかない。決断のよりどころは経験、統計、実験も含めた数値であり、定性的な考え方を定量的に捉えることが重要です。厳しい環境下で、理論武装しながら自ら決断し解決することの大切さを学びました。

 業務が重なって大変な時期に、上司から掛けられた「落ち着きなさい。やるべきことが見えているなら、その仕事はいつか終わる」の一言。あれもこれもやらなければとパニックになっていた時、この言葉を思い出すと不思議と安心できました。

 関わってきた仕事は常に、都市がキーワードでした。ビルが林立し大型重機が使えない狭い場所で、いかに工事を進めるか。都心部は難工事が多く、2013年度の土木学会田中賞を受賞した首都高速八重洲線汐留高架橋の架け替え工事は達成感がありました。

 大変なことを好きな人はいないと思いますが、最後には山を登り切ったような「すがすがしさ」が得られます。トラブルや苦しさを乗り越え、完遂した経験は財産になります。

 粘り強く、最後までやりきる。苦しい時も可能性を信じて前に進む。若い人たちには受け身にならず、ポテンシャルに制限を掛けずに最後まで自分の意志を貫いてほしいです。

30代半ばころ、JV現場事務所の開所式で(左端が本人)
 (かさぼう・ひであき)1987年早稲田大学大学院理工学研究科建設工学専攻修了、川崎重工業入社。90年にIHI入社。IHIインフラシステム理事都市高速部長などを経て、2014年6月から現職。神奈川県出身、59歳。

1 件のコメント :

  1. 発見させていただきましたよー。昔プログレバンドでご一緒しましたね。ドライブした時イエスのロンリーハートで盛り上がりました。お懐かしゅうございます。お元気そうで何よりです!

    返信削除