国で学んだことを地元の街づくりに生かしたい… |
バブル景気の余韻が残る1994年に、東北にある大学の大学院を修了。地元の九州に戻って25歳で市役所に土木技術者として入庁した大下通さん(仮名)。
学生時代に機械工学を専攻していた経験と将来性を買われ、就職活動では複数の大手電機メーカーなどから内定を得た。内定企業の初任給はどこも破格の高さだったが、そんな好条件を蹴って市役所を選んだのは、「将来の安定もあるけれど、税金を使って働くことに純粋にやりがいと使命感があると感じた」からだ。
学生時代、公務員になっても民間企業に就職しても「きっかけは思い出せないが、一技術者として街づくりに貢献したい」という目標がいつの間にか芽生えていたという。
市役所で最初に配属されたのは建設部土木課。希望通り、道路や河川、下水道などの設計に没頭できた。29歳で同僚と結婚。翌年には第1子の長女が生まれた。公私ともに最高の幸せと充実感を味わえる日々を過ごしていた。
仕事で最初の大きな試練と転機が訪れたのは、下水道部の総括主任となった33歳の時。市は下水道施設の将来の老朽化対策費を確保するため利用料金の引き上げを決めたが、市民の間で、市の想像をはるかに上回る反対運動が巻き起こった。
何とか料金の引き上げへの理解を得ようと、上司から命じられたのは、技術的な根拠に基づいて市民に分かりやすく丁寧に説明する仕事だった。
「技術者として本来やるべき仕事でもやりたい仕事でもない」。そう感じた。データ収集や資料作りに、分かりやすい説明…。慣れない仕事に苦戦した。必死に取り組んでほぼ1年後、何とか市民の理解を得られることになった。
自分の中で何かが変わっていた。「本当に大変だったが、大きな仕事をやり遂げた充実感もいっぱいだった」。当時の心境を今、そう振り返る。同時に、行政マンとして「技術や事務といった枠にとらわれず、マルチに働ける能力を身に付けることが住民に喜んでもらう仕事をする上で大きなアドバンテージになることが分かった」と痛感した。
現在47歳。東京・霞が関の官庁に単身赴任で出向している。着任当初は、地方の自治体とは全く違う国の仕事のスピード感に圧倒された。公共事業の手法も、若手時代には経験したことがないPPP・PFIなど多様化している。毎日が新たな経験。ついていくのに必死だ。
「行政マンとしていろいろなことを経験してきたが、今も技術者として街づくりに貢献したいという最初の志は何一つぶれていない」という。
来春、市役所に戻る予定だ。「国で学んだことを必ず地元の街づくりに生かしたい」。
私生活では、長女が高校3年になり、大学受験の真っ最中。来年には中学2年の次女が高校受験を控える。当面はこの春、長女が志望校に合格し、家族4人でお祝いできるのを心待ちにしている。
技術者としては、いつか世界各国を旅しながら、日本とは違う街づくりを勉強したいという淡い夢を胸の奥で大事に温めている。
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