2016年1月25日月曜日

【駆け出しのころ】淺沼組取締役常務執行役員土木事業本部長・小島達行氏

 ◇あの時に分かった大事なこと◇

 入社する前年の後半にオイルショックが起こり、多くの企業が新人採用で内定の取り消しを行って社会問題になっていました。そんな中、淺沼組では一人の内定取り消しもなく、私を含め総勢二百数十人が入社できました。当時のことはいまだに強烈な印象として残っています。

 新入社員研修は淡路島で行われました。チームに分かれてのボート競争などもあり、一日の研修を終えて部屋で皆と一杯やるのが楽しかったのを覚えています。

 研修後すぐ、九州の宅地造成作業所に配属されました。ところが、オイルショックの影響でこの事業が中止となり、九州支店の土木部長から、大阪の作業所に3カ月だけ応援に行くよう指示を受けました。こうして大阪に出てきたのですが、九州には一度も帰ることなく、そのままもう40年以上がたちます。

 入社2年目、現場での作業にもそろそろ慣れてきたころ、私は測量で大きなミスを起こしてしまいます。事務所に帰って翌日の作業を段取りしている時、どうも日中に実施した道路側溝の測量が気になり、自分で計算して確かめると見事に違っているのです。分かった時は既に遅く、間も悪いことに協力会社の人たちが残業してコンクリートの打設を終えた後でした。

 すぐ上司に報告しようと考えたのですが、言えませんでした。翌朝に意を決して報告すると、最初は怒られたものの、この早い段階で話してくれたことは良いこと、と褒めていただけました。測量を間違えてはいけないが、報告しないことの方がもっと駄目だというのです。黙っていて最後の検査で間違いが露見したら、手直しに多くの時間と費用がかかり、発注者の信頼も失ってしまうと教えられました。

 報告できずにもやもやしていたあの晩のことは、今も忘れられません。ですから、私は部下に悪い報告はすぐに上げてくるようにと話しています。良い報告は放っておいても耳に入ってくるものです。

 もう一つ、忘れられない経験があります。1995年に起きた阪神・淡路大震災です。発生翌日の早朝に大阪から神戸方面に向かってから1カ月間は不眠不休で、倒壊した道路構造物の撤去に当たりました。気が付くと体重は10キロ以上減っていましたが、この時ほど、官民が固い絆で結ばれて作業を進めたと思えることはありませんでした。そうして国道43号が復旧を終えて開通した時には、やり切ったという思いで胸がいっぱいになりました。地元の方々からも感謝していただき、建設会社で働いて本当に良かったと思える瞬間でした。

 (こじま・たつゆき)1974年西日本工大卒、淺沼組入社。大阪本店土木部統括部長、執行役員大阪本店副本店長兼本社経営企画本部副本部長などを経て、15年4月から取締役常務執行役員土木事業本部長兼安全環境管理本部長。長崎県出身、65歳。

自ら施工管理した石積みの前で
(入社3年目くらいのころ)


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