入社して最初の1年間は見習いとして研修を受けました。その最初が作業所での研修で、大規模な集合住宅をプレキャスト工法で造るという先進的な現場でした。多くの職人さんたちとも接し、大変に新鮮な体験ができました。それから設計、見積もりの研修を経て、入社2年目に設計部に配属されて構造設計を担当しました。
当時の構造計算で使っていたのはそろばんと計算尺。しかし、私はそうした計算に慣れていなかったので手が動かず、最初のころはSRC柱1本の計算に1週間もかかっていました。私とは違い、先輩たちはものすごいスピードで、しかも正確に計算書を作成されていました。まさにプロの仕事です。その大きな差を痛感したものです。
そうして経験を積んである程度はできるようになったのですが、構造計算で使うのは段々と電卓とコンピューターに代わっていきました。タフな仕事はコンピューターがやってくれるようになったのです。でも後から考えると、自分の手で計算しながら設計した経験はとても貴重なものでした。
私が若いころは超高層建築の数が増えていく黎明(れいめい)期でもありました。超高層を設計するには特殊な解析が必要です。それは経験的に学んだことではなく、震動解析をどうやるのかなど大学で学んだことが生かせるものでした。そうした機会が増えていくうち、30歳のころに一つの超高層建築の設計を任せてもらいました。最初はどうしたらよいのかと迷い、いろいろな方に相談もしました。大変な経験でしたが、良いチャンスに恵まれたと思っています。
1985年に配属されたのは構造開発部門でした。当初は周りの人たちが生き生きと仕事をしていたのに対し、私には仕事がなかなか回ってきませんでした。それまではデッドラインに間に合わせるためにいつも時間に追い掛けられていましたから、仕事がないことにとても不安を覚えました。ですが、上司が「岡本は自分で何かを考えるだろう」と意図的にそうしてくれていたのだと思います。この部署では、自分が設計する時にあったら役立つという技術を考え、その企画や開発に当たらせてもらいました。
常に考え、工夫し、知恵を注ぎ込む。そして追い掛けられるよりも攻める。そう考えていると、いろいろなアイデアが出てくるものです。私の役割は今、そうやって出てきたものをバックアップすることです。かつての上司も、同じことをしてくれていたに違いありません。
(おかもと・たつお)1973年京大大学院修士課程建築学専攻修了、竹中工務店入社。88年大阪本店設計部構造課長、01年同設計部長、04年設計本部副本部長、06年技術企画本部長、08年取締役、10年執行役員、11年常務執行役員、14年専務執行役員。兵庫県出身、66歳。
見習い研修の最初に配属された作業所で、とび職の職長と(1973年7月撮影) |
お久しぶりです。幼なじみの涼子です。現役で頑張っておられるんですね。流石です。映子ちゃんの事おききしたいです。昨晩夢を見ました。
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