2019年3月25日月曜日

【駆け出しのころ】横河システム建築常務取締役・高柳隆氏


 ◇情熱が「仕事力」を高める◇

 高校1年生の時に交通事故で入院し、病院の屋上から夕日に浮かぶ西新宿の超高層ビルの鉄骨が立ち上がっていくのを見た時、建設の仕事に携わりたいと思ったことを覚えています。

 大学の近代建築史という授業で鉄骨造の先駆者・横河民輔を知り、日本を代表する橋梁やビルを建設する横河橋梁製作所(現横河ブリッジ)で働きたいと思いました。しかし、実際に入社すると、超高層ビルの鉄骨部門は、花形と言うよりは不採算部門で日陰の部署だと感じました。鉄骨の営業部門に配属され、社内の評価に違和感を覚えながらも目の前の仕事にまい進していました。

 入社4年目のころ、新規事業だった「開閉屋根」の部署に異動しました。当時はガラス張りのプールの屋根が主な市場でしたが、その後、野球場やサッカースタジアムに開閉ドームとして採用されるようになりました。

 利益の出ない鉄骨に「動く」という付加価値を持たせた開閉屋根の仕事が面白く、当時は寝る間を惜しんで仕事に没頭しました。売り上げは決して大きくなかったので社内の評価は低かったのですが、われわれの技術力は社外からは高く評価されていましたので自信と誇りを持って働いていたことを思い出します。

 ドームの仕事が一段落した40代前半、再びビル鉄骨の営業へ異動になりました。六本木をはじめとする超高層ビルの鉄骨を同業者らと共同で請け負っていましたが、どこの会社も大きな赤字を出しており、このままでは誰も幸せにならないと思い、当時の上司と相談し意を決してビル鉄骨事業からの撤退を会社に進言しました。当時、業界最大手だった当社が最初に撤退を決めたのですが、その時は私が部長になっていました。

 自らの手で部署を解散した後、40代後半で今の横河システム建築へ転籍になりました。当時はシステム建築も利益が出ていない事業で、グループ内でも日陰の存在でした。しかし、この仕事は橋梁や鉄骨よりも市場が大きく、他社との差別化が図れる武器を持った商品だと直感しました。

 建設業界は「仕事を取りにいく」という考え方が主流ですが、当社は「ほしいと思ってくれる顧客を増やす」ことを一番の営業戦略に据えています。自動車販売と同じ仕組みで、全国に組織する販売施工店がディーラー、当社はメーカーの役割を担う関係を構築してきました。この戦略が功を奏し、グループ内2番目の会社に成長させることができました。今後は一層広報戦略に力を入れ、事業拡大に取り組みたいと考えています。

 今の若い人は勉強もできて言われたことはすぐにこなします。しかし、どこか冷めた面も見られます。自分の熱や鼓動を相手に伝える情熱が「仕事力」を高めると私は考えています。若い人たちにはもっと熱いハートを持って建設の世界で働いてほしいと思っています。

「開閉式屋根」の仕事に熱中していた入社13年目。
こまつドームの現場で
(たかやなぎ・たかし)1982年東京電機大学工学部建築学科卒、横河橋梁製作所(現横河ブリッジホールディングス)入社。2006年に横河システム建築に転籍後、営業部長、取締役を経て18年から現職。埼玉県出身、60歳。

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