2019年3月4日月曜日

【駆け出しのころ】鹿島道路取締役専務執行役員生産技術本部長・畑淳氏

 ◇出会いを人生の糧に◇

 高校時代の夏休みに山間部の道路を整備する現場でアルバイトをした時、作業員の方々とござを敷いて笑いながら昼食を食べました。こんなに楽しく働ける職業があると感じたのが土木の道を志したきっかけでした。

 大学の実習で訪れた鹿島道路の施工現場で、先輩方に親切にいろいろ教えてもらったことが入社の決め手となり、入社後1年間は技術研究所に勤務しました。

 3カ月目に任された試験の時、作業を手伝ってくれた先輩のミスで試験結果をまとめるのが遅れてしまいました。担当の主任研究員には先輩のことは伝えず自分が失敗したと報告し、その場は「若いから仕方がない」と収まりましたが終業後、主任から近くの焼き鳥屋に呼び出されました。主任は「自分ですべての責任をとったことは立派だが、若くてもプロとして仕事を任せたのだから、お前は先輩にも責任を持たせる義務がある」と諭され、プロ意識の大切さとすごさを学びました。

 技術研究所から東北の現場に異動する際にも主任から「毎月3000円分の本を買って、なんでもいいから本を読む癖をつけなさい」とアドバイスを受けました。買った本の半分以上は読めませんでしたが、本を読むことで知識を増やすこと以上に、第三者的な見方を養うことができました。

 これは会社の組織管理に役立ちます。立場も考え方も異なる人たちと接する際、相手の視点から物事をとらえながら話し合うことにより、誰とでも一緒に仕事ができるようになりました。

 社内でかつての上司や先輩たちと再会すると、「君はいま何割の力で頑張っているのか」と尋ねてきます。「120%の力で頑張っています」と胸を張って答えると、「ばか者」と叱られました。70~80%の力で余裕を持って周りの先輩の仕事ぶりなどを見ながら、自分だったらどうするかを考える。そういった時間を自分で作りなさいと教えられました。

 思い出深い現場として、営業所の副所長時代に関わった宮城球場(現楽天生命パーク宮城)は工期など厳しい現場でしたが、技術者としては非常に面白みがありました。支店の工事部長時代に起きた東日本大震災の経験は語り尽くせません。昼夜問わず、復旧・復興に向けて泣き言を言わず、みんなが必死で頑張ってくれました。本当に感謝の言葉しか出てきません。

 後輩には人工知能(AI)など技術革新が急速に進む時代だからこそ、人に対する思いやりや優しさを大切にしてもらいたい。柔軟性も重要です。先進技術による生産性向上は必要ですが、出会った人たちのアドバイスをどう受け止め、そしゃくするかで仕事の向き合い方も変わると教えたい。

 情にもろく、自分のことよりも仲間・部下を思い、会社の上層部とぶつかることもよくありました。そんな私を受け止めてくれた先輩方の思いを、次代を担う人たちにどんな形でバトンを手渡すか。いま与えられた職責に、まっすぐ取り組んでいきたいと思います。

入社9年目。高速道路の路盤再生工事の現場で仲間たちと
(前列右から2人目が本人)
(はた・あつし)1978年東北学院大学工学部土木工学科卒、鹿島道路入社。東北支店仙台営業所長、同工事部長、生産技術本部工事部長、執行役員生産技術本部工事統括部長、同東北支店長、常務執行役員などを経て、18年から現職。福島県出身、63歳。

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