2018年7月11日水曜日

【駆け出しのころ】宮坂建設工業専務執行役員・阿部忍氏

 ◇チャレンジこそ成長の礎◇

 高校時代は土木に興味はなく、むしろ建築に興味を持っていました。しかし進学した工業大学には建築系の学科がありませんでした。開発工学科で土木の勉強をしていくうちに徐々に土木への興味がわき、大学3年生時の炭鉱での現場実習で、縦横に複雑に広がる坑道をトロッコで進み、石炭の採掘作業を間近で見た時に「自分も将来はこんなスケールの大きな仕事をしたい」と思い、建設の道に進みました。

 私が入社した当時は、土木の技術職員は全員、十勝管内に4カ所存在した宿舎のいずれかに住み込むことが決まりでした。そのため帯広市内に自宅があった私も、幕別町の宿舎に配属され、そこから毎日現場に通っていました。

 新人のころは、朝早くに朝礼の準備をし、夜遅くに現場から戻った後も宿舎の片付けやその日の現場作業の反省文の作成など毎日忙しく過ごしました。大学まで野球部に所属していた体育会系の私でも毎日のようにやめたいと思うほどつらく、「早く現場所長になりたい」と毎日必死で勉強していました。

 そうした中、26歳のころに転機が訪れました。道内大手企業が施工する高速道路の高架橋工事に下請として出向した時のことです。それまでの現場は農業土木工事の仕事が多く、規模は大きくても、構造物の設計をすることなどありませんでした。その現場では、自分たちで橋梁の構造計算や図面を作成しており、「技術者にはこんな仕事があるのか」と、カルチャーショックを受けたのを覚えています。

 私はその時、元請企業の所長に教えを請い、施工技術から現場の原価管理の方法までさまざまなことを勉強させていただきました。私は「うちの会社でもこういう仕事をしてみたい」という思いから、教わった内容をリポートにまとめ月1回、会社に報告するようにしました。

 その現場でこれまでとは違う景色が見えたことで「新しいことにチャレンジしたい」という気持ちが大きくなり、雑誌や新聞などで最新の技術を勉強するようになりました。そのかいもあり、所長として携わった第2札内橋工事で当社としては初めてニューマチックケーソン工法を施工したり、初めて本州での工事に出向したりなど、たくさんの特別な経験を積むことができました。

 今では、若い技術者がJVのサブや下請として出向した際には、その現場でどういう仕事をして、何を学んだかをリポートとしてまとめ必ず提出させるようにしています。普段とは異なる環境に置かれることで気付くことは多いです。自分で課題を持ちながら日々の業務に当たることで、仕事への興味と積極性が生まれ、成長していくのだと思います。

 (あべ・しのぶ)1983年北見工業大学開発工学科卒、宮坂建設工業入社。土木部工事課長、同工事部長、執行役員技術審査部部長、常務執行役員などを経て18年4月から現職。北海道出身、58歳。
20代半ばで配属された現場の事務所前で

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