2021年1月18日月曜日

【中堅世代】それぞれの建設業・275

自然の力を前に無力さを感じることもある。それでも…

 ◇1人でも多く津波から救えたら◇

  海に面した自治体で土木職として防潮堤のかさ上げに携わる眞嶋和さん(仮名)には忘れられない記憶がある。2011年に災害派遣で訪れた東北の光景だ。被災地で災害復旧に携わった経験は、仕事との向き合い方を根本から変えることになった。

 バンド活動に明け暮れていた高校時代。ある日、インターンシップ(就業体験)で自治体の土木事務所を訪問した。公用車で管内を回った時、職員が話していた「自分が担当した道路や橋を通るとやりがいを感じる」という言葉が心に残り、公務員を志すきっかけになった。

 猛勉強の末、試験に合格。高校卒業と同時に自治体へ就職した。最初の配属先は漁港整備を所管する事務所。土木用語はもちろん、書類のとじ方すら分からない状態でいきなり、漁港内の舗装工事を任された。夜遅くまで図面や設計書を相手に悪戦苦闘する日々。だが2~3年たつと仕事に余裕が生まれ、地元の人とも打ち解けて話せるようになった。

 海沿いの別の土木事務所で働いていた11年3月に東日本大震災が発生した。本庁は災害派遣を決定。眞嶋さんの県も津波の襲来が予想されており、「自分たちの番になった時のため、絶対に見ておきたい」という思いで志願した。

 6月に現地へ入ると、海水や油の匂いが充満していた。市街地は津波で流されて跡形も無く、がれきが散乱していた。海沿いに立って内陸を見ると、山の裾野まで見渡せた。「こんなことが現実に起こるのかとショックだった」と振り返る。

 眞嶋さんらはビジネスホテルから現地の自治体の庁舎に通い、被災した防波堤の災害査定に対応した。防波堤は付け根から無くなっていたため、原型復旧は全くの手探り状態。古い図面を参考に復旧費用を算定した。「日ごろの港湾台帳の整備や、こまめな写真撮影の重要さを痛感した」と話す。派遣は8月までの予定だったが、国の査定官が来る9月上旬まで滞在を延ばし、査定を受けてから現地を離れた。

 5年後の16年に出張で再訪する機会があった。共に働いた現地の職員らと再会。自分が担当した防波堤を見に行くと立派に出来上がっていた。「自分のやったことが今につながっている」。ぐっと熱い思いがこみ上げてきた。交流は今も続き周囲には現地の人と結婚した職員もいる。

 現在は高校時代にインターンシップで訪れた土木事務所に在籍し、防潮堤のかさ上げ事業を担当している。被災地を思い返し「何を作っても同じだと感じた。津波は物では防ぎ切れない」という無力感を覚えることもある眞嶋さん。だが波高が比較的低いとされる第1波を防ぎ、住民が逃げる時間を確保する効果はある。「県民を守るという意識を念頭に仕事をしている。常に頭にあるといえばうそになるけれど」と笑う。「自分が作った堤防や護岸で1人でも多く救えたら」。使命感を胸に秘め今日も仕事と誠実に向き合う。

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