2016年9月26日月曜日

【駆け出しのころ】高松建設東京本店執行役員工事本部長・井ノ原基守氏

 ◇声掛けられた嬉しさは忘れない◇

 建設会社を経営していた叔父の影響もあり、地元の工業高校では建築を専攻しました。卒業したら働くつもりでしたが、その会社の現場でよくアルバイトをしていた経験から、働くことの厳しさを知り、すぐに働くのは気力、体力、そして能力の面からも断念し、親に頼んで大学に進学しました。

 高松建設のことはゼミの先生に紹介していただきました。入社して短期間でしたが住宅工事に携わった後、奈良県内でホテルの建築現場に配属になりました。工期が短く突貫で進められた現場で、私を含めた社員8人が仮設宿舎で一緒に寝泊まりしながら仕事する日々でした。

 この現場ではとにかく走り回り、汗まみれで作業着も汚れていたため、ある日、現場にいると職人さんから「高松の監督さんはどこ」と聞かれたこともありました。私が高松建設の社員には見えなかったようです。いつの間にか体重も減るような、体力面でも非常に厳しい現場でした。

 次に担当した現場は、大阪市内のテナントビルでした。今でもお付き合いのある当時の担当課長だった方に、私はこの現場に配属されてすぐに「監督らしい仕事がしたい」と言ったそうです。自分では覚えていませんが、それまでは現場で走り回っていることが多く、建築技術者としての仕事ができていないのではと不安だったのではないでしょうか。

 1980年代半ばの好景気ということもあって、この現場も工期が厳しく、1週間ほどで鉄骨の穴開け加工図を書くよう指示を受けました。一日の現場の仕事を終えると、風呂に入るためだけに一度寮に帰り期日までに完成させました。その図面は現場での手直しもなく「よく書けている」と褒めていただき、技術者らしい仕事に携われたと自己評価できる現場でした。ここで技術者の基礎と、働く姿勢を学んだことが、後に入社2年目で初めて所長的な立場でマンション建築現場を任された時も生かせたと思っています。

 若かったころ、普段はなかなか会話をする機会が少ない上司から「あの現場は大変だったそうやな」「躯体の精度がいいと聞いているよ」などと短い言葉でも声を掛けてもらえた時はうれしかったものです。私の仕事を見てくれている現場の上司が、その方に報告してくれていたからそうした気遣いをしていただけたのです。私もできるだけそうした声を掛けるように意識しています。

 建物は手を加えれば加えるほど良いものになります。常に向上心を持ち、何事にもこだわって仕事をしてほしいと思います。現在は若い社員を以前より難易度の高い現場に配置して、仕上がりよく完成させてくれた時に大きな喜びを感じ、またそんな様子を見るのが今の私の一つのやりがいでもあります。

 (いのはら・もともり)1983年摂南大工学部建築学科卒、高松建設大阪本店建築部入社。建築部課長代理、購買部課長、工事部部長、工事第2本部長、14年4月執行役員大阪本店工事本部長などを経て、15年5月から現職。兵庫県出身、56歳。

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