2018年12月10日月曜日

【駆け出しのころ】世紀東急工業取締役常務執行役員事業推進本部長・平喜一氏

 ◇悩んで考えてこそ強くなれる◇

 「今日からここが君の部屋だ」。今もこう言われた時のことが鮮明に思い出されます。入社して最初に配属された当時の川崎営業所の建物は、まだ老朽化したプレハブ造りで、1階が事務所、2階が宿舎となっていました。意気揚々と、現場の最前線である営業所に赴任して来たものの、2階に上がって部屋を案内され、本当にここで生活しながら働いていけるのか?と正直不安になりました。

 1年目は防衛庁の横須賀米軍施設内のヘリポート工事と、東京都発注の道路改築工事に携わりました。工期が迫った年度末になると休日のない日が続き、これはとんでもない会社に入ってしまったと、心中穏やかではなかったのですが、面倒見が良い先輩のおかげもあり、会社を辞めようとまでは思いませんでした。

 入社5年目の26歳の時、川崎市発注の下水道工事で初めて現場代理人に抜てきされます。大変うれしかったのですが、喜びもつかの間、深さ10メートルの立坑築造など、さまざまな未経験の工種もあり、知識と見識不足を痛感しました。さらに施工中のトラブルも相次ぎ、精神的にも徐々に追い詰められていきました。当時は会社や現場からの呼び出しでポケットベルが鳴ると気がめいり、体調不良で病院に行った際にも診察中でさえベルが鳴り、泣けてきたことを今でも覚えています。そのような状況の中でも何とか工事自体は完成させましたが、結果は大赤字で心身共に本当にボロボロの状態でした。

 6年目、栃木県佐野市の北関東営業所に異動し、ここで大きな転機を迎えることとなります。旧建設省の道路改良工事で主任技術者を務め、心機一転、道路と公共工事を基本から勉強し直しました。そうして少しずつ自分を取り戻し、土木という仕事に誇りを持てるようになりました。その後もさまざまな現場でいろいろしびれる局面もありましたが、反面教師の自分と素晴らしい人たちとの出会いにより、心は折れることはなく前を向いて何とか乗り越えられました。

 こうして振り返ると、20代のころの私は、仕事は知らない、世の中も知らない、そして相手の思いも分からない、そのくせどこかで突っ張っていてボロボロになって当然でした。唯一の救いは「逃げなかったこと」だけではなかったかと思います。

 建設業界の仕事というのは、しょせん一人では何もできません。“人材と人間関係が全て”の業界であり、あとは心の持ちようです。志と情熱があれば何とかなります。米国の詩人ロングフェローに『悩んで強くなることがいかに崇高なことか知れ』という名言があります。若い人たちには大いに悩み、考え、努力して乗り越え、立派な建設マンになってほしいと思います。

 (たいら・よしかず)1984年鹿児島大学工学部海洋土木開発工学科卒、世紀東急工業入社。北関東支店長、執行役員関東支店長兼東京支店長、常務執行役員工務部長、取締役常務執行役員事業推進本部副本部長兼工務部長などを経て、18年4月から現職。福岡県出身、57歳。

入社1年目に携わったヘリポート工事の現場で

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