◇仲間の支えで困難克服◇
高校までは建築士に憧れていましたが、大学で土木工学の偉大さを知りました。就職先はゼネコンも考えましたが、指導教授の勧めもあり熊谷道路(現ガイアート)に入社しました。
研修後、同期4人が北海道支店に配属されました。私が唯一の道内出身者だったこともあり、当時の支店長から最北の猿払作業所勤務を命じられました。道内でも厳しい気象の地域で、ストーブを使わない日は年に数日ほど。夜は明かりがなくなり一面漆黒の世界を見て、この先やっていけるだろうかと不安になったのを覚えています。
最初は合材工場の担当となり、品質管理などを任されました。小さいころから好奇心旺盛だったので、とにかく聞いて仕事を覚えました。所長や先輩たちは厳しい面もありましたが、私の問いに丁寧に答えてくれました。仕事への姿勢と熱意、使命と責任感を学び技術者として根底の部分が養われました。
4年目からは現場代理人として国関係の工事を中心に回りました。オホーツク海に面する道北エリアは気象的に過酷な環境で、現場は常に天候との戦いでした。6年目に担当した日本最北端の観光名所、宗谷岬での舗装改築工事はまさに戦いで、今も忘れることができません。
完成間近の初冬、下層路盤の仕上げを行い翌日に上層路盤(AS安定処理)の作業を予定していました。しかし大寒波が襲来し翌日の天気予報が氷点下10度に急変。当初の計画通りに施工した場合、翌年には凍結融解による不等沈下で舗装体が破壊されると想像できました。
夜を徹して上層路盤まで施工し構造体の品質を確保したいと考え、発注者の了承も得ました。現場担当の社員や作業員は突然の昼夜連続の作業になりましたが、より良いものづくりへの思いに納得してくれました。
夜間作業の前に現場近くの食堂にみんなを集めて空腹を満たし、英気を養いました。次第に激しさが増す暴風雨の中、夜通し舗装工事を行い、無事終了し作業所に戻ったのは早朝の午前5時。激務を終えた安堵(あんど)感から眠りに落ち、数時間後に目を覚ました時には、窓の外は猛吹雪で別世界に変わっていました。前日の判断に間違いはなかった…。ほっと胸をなで下ろしました。
自分一人では絶対にできない困難な工事でも、仲間の支えがあれば成し遂げられます。施工から30年たっても路面状態は健全。あの時の決断と頑張りが長期の品質確保につながりました。今も家族で宗谷岬に立ち寄るたびに当時を思い出します。
「社は人財なり」をモットーに社員の人間力を高めたい。若い人たちには夢と希望、創造性と勇気を持って行動し、自己成長につなげてほしいと思います。
7年前、家族と立ち寄った宗谷岬での一枚(中央が本人) |
(ふかざわ・なおき)1984年北見工業大学工学部開発工学科卒、熊谷道路入社。工事統括部長、執行役員東北支店長、執行役員常務工事・製品・技術担当を経て2019年4月から現職。北海道出身、59歳。
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