2020年9月28日月曜日

【駆け出しのころ】熊谷組執行役員経営企画本部長・川村和彦氏

 ◇悩みや苦労を成長の糧に◇

 早く一人前になりたいという思いが常にありました。就職活動ではさまざまな業界を回って働きがいがあり、自分が成長できそうな分野を絞り込んでいきました。

 最終的には社会貢献を肌感覚で実感できるものづくりの中でも、インフラなどスケールの大きな仕事を手掛けるゼネコンを志望。当時は絶好調で海外事業に強く、社員の方々も伸び伸びと仕事をしている印象を受けた熊谷組に強く興味を引かれたのを覚えています。

 最初に配属された東京支店では、都心区の建築・土木の現場を抱える工事所で勤務し、現場事務のことを学びました。技術・知識を何も身に付けていない状況で、まずは人の話を聞いて仕事を覚えようと無我夢中の毎日。上司や先輩たちに恵まれ、夜の部も含めて鍛えられました。

 若いころは成長への焦りもあり、会社に十分に貢献できていないのではないかと悩んでばかり。毎月の給料から1万~2万円は書籍の購入費用に回すなど、とにかく自分に力を付けることに飢えていました。

 入社4年目に東京支店の経理課に異動。自分の中で視野を広げる転機になりました。支店だけで受注目標2000億円と言われていた時代。手持ち工事が多く、平成元年4月の消費税導入への対応もあり、仕事量は膨大でした。一心不乱に入金伝票を切り続け、知らぬ間に朝を迎えたことも。決算になれば終電過ぎまで仕事をしていました。バブル期でなかなかつかまらないタクシーで帰宅し、数時間後に出社するなど、大変な日々でしたが、最後までやりきる仕事への姿勢が身に付いたと思います。

 入社14年目に出向したグループのガイアートクマガイ(現ガイアート)で人事制度の整備に携わりました。独立意識の高い同社の社員からすると、着任時は「敵陣地の真ん中に下りてしまった落下傘部隊」のような雰囲気。仕事を一生懸命やるだけでなく、毎日のように酒を酌み交わしながら語り合うことで打ち解けていきました。1年足らずで親会社に呼び戻される際には盛大な送別会を開いてもらい、うれし泣きしたのを思い出します。仕事や人間関係の面でも大きな財産となりました。

 熊谷組に戻り、時価会計導入に伴う社内の制度変更を担当。未知の領域だった退職金や年金の仕組みなどを必死に勉強して取り組んだ経験は、自分に力が付いたことを実感できました。今思えば、自分にとってロケットの発射台のような成長の機会となりました。

 成長の道筋は一直線ではなく、停滞する時期もあります。仕事の向こう側にお客さんの顔を思い浮かべながら、自分で自分を鍛え、不変ではない常識を磨き続けることも大切。若い人たちには悩み、苦労した経験を成長の糧とし、前に進んでほしいです。

入社3年目ころ。建設業トーナメントで優勝した熊谷組
サッカー部のチームメートと一緒に(前列左端が本人)

 (かわむら・かずひこ)1985年北海道大学経済学部経済学科卒、熊谷組入社。関西支店管理部長、経営企画本部経営企画部長などを経て現職。東京都出身、58歳。

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