2020年12月14日月曜日

【駆け出しのころ】日本設計取締役副社長執行役員・三井雅貴氏

 ◇設計力と対話力に磨きを◇ 

 若いころ、親戚が営む工務店の鉄工所で働いていた時に建築士の仕事に憧れを持ち、一念発起で建築を学ぶために進学しました。

 学生時代は地元の愛知で設計に関わるバイトをいろいろ行いながら、自分に合った就職先を考えていましたが、指導教官から勧められたのが日本設計でした。当時、東京の会社のことはよく知りませんでしたが、大きな組織で扱っている規模や業務内容の幅の広さに驚いたのを覚えています。

 入社後、最初の部署はオフィスや研究所、電算センターなどを比較的多く担当していました。当時はバブル期でとにかく忙しい毎日。新人ながら設計スタッフとして、いきなり顧客との打ち合わせに行き、図面も徹夜して描いていました。

 駆け出しのころ印象に残っている案件はIBMの幕張ビル。設計から現場での監理業務まですべてのプロセスを経験しました。すべて苦労の連続でしたが、プレゼンテーションの仕方から模型の作り方や見せ方、パースの描き方など、大変勉強になりました。

 図面を描くだけでは建築は成り立たず、きちんと顧客に説明し納得してもらう。建築士にとっての設計力は基礎体力としてもちろん大切ですが、対話する力がないとプロジェクトは絶対にうまくいきません。

 指導担当の先輩からよく言われたのは「知ったかぶりをするな」。若手の自分の知識は底が浅いのだから、積極的に聞くように諭されました。知識を蓄えるのは最低条件であり、少なくとも顧客よりも知っていないと、仕事でお金をもらう資格はありません。謙虚に勉強することが大切です。

 思い出深い仕事は東京スタジアム(味の素スタジアム)建設工事。その前に埼玉アリーナのコンペで負けた悔しさと、その時に勉強したスタンドのある建築物の面白さなどから、自ら志願してプロポーザルのチームに参加。スタジアムは当時の日本設計には実績がなかったため、友人や知人のつてをたどり、ずうずうしくもライバル会社の関係者に教えを請うことも。周囲の知恵を借りながら、知識を蓄えました。

 設計業務から現場常駐の監理業務まで約7年にわたって携わりました。設計変更が多く大変な事業でしたが、職人や元請など施工関係者の知恵を聞け、ネットワークが広がったのは今も大きな財産です。

 誰もが希望する仕事を担当できるわけではありません。どんな仕事でも興味の対象を見つけないと、成長の機会を逃すだけ。若手には面白みを見つける努力をしなさいと伝えています。またこういう時代だからこそ、丁寧に対話する必要性が増しています。設計力と対話力を磨き続け、選ばれる人、選ばれる組織へとさらなる成長を目指してほしいです。

入社2年目ころ。寝る間を惜しんで図面を描き上げていた

 (みつい・まさき)1984年豊田工業高等専門学校建築学科卒、88年豊橋技術科学大学大学院工学研究科建設工学専攻修了、日本設計入社。執行役員設計群長などを経て現職。愛知県出身、60歳。

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