2020年12月22日火曜日

【駆け出しのころ】ピーエス三菱常務執行役員東京建築支店長・光田秀幸氏

  ◇人のつながりが仕事の縁に◇

 三菱建設(現ピーエス三菱)に入社後、最初の配属先が札幌支店と聞いて耳を疑いました。地元が九州の新入社員は東京以西のエリアに例年配属されていたのですが、私の代はできるだけ親元から離し若いうちにいろいろな経験を積ませようと、会社の方針が変わったようです。

 研修を終えて6月から札幌市内で施工中の事務所ビルの現場に3カ月ほど勤務。先輩に教わりながら墨出しや各工程の写真撮影などを行いました。

 1年目の秋から自衛隊の宿舎と隊舎の建築工事の現場を担当し、真冬の北海道を体感しました。生コンクリートの打設や左官といった作業があった日は、養生のため夜通しでジェットヒーターを運転し続けます。現場事務所のストーブの前で寒さに耐えながら、4時間おきに給油する作業はさすがにこたえました。

 現場所長に施工図の描き方を教わった時、「自分で考えて(線を)引かないとうまくならないぞ」とよく言われたのを覚えています。描いた通りに現場が動いているかをチェックし、収まりなど細部により気を配るようになりました。

 2年目は夏から冬にかけてニセコのスキー場でリフトの延伸とレストランの整備に携わりました。ミキサー車が現場には入れず、既設のリフトを使ってバケツで生コンを運搬。リフトの延伸場所にはヘリコプターで運びました。作業が予定より早く終わった時、遊覧飛行でヘリに搭乗させてもらったのは良い思い出です。

 3年目で結婚し翌年には九州支店へ異動。単身赴任であちこちの現場を回り、長男が生まれた時は沖縄だったため、息子の顔を初めて見たのは生後2カ月たってから。家族に申し訳ないという思いが拭えませんでした。

 30歳前後で担当した福岡・天神の大型複合ビルは思い出深い現場の一つです。未経験の地下工事に多少の怖さも感じましたが、地元注目の案件だったのでやりがいはありました。

 40代になって営業職に異動しました。右も左も分からない中、プライベートも含めて人とのつながりを大切にしてきたことが受注につながりました。営業で大切なのは自ら汗をかくこと。コロナ禍で最近はオンラインでの打ち合わせが増えていますが、面と向かって相手が何を求めているか感じ取ることも重要です。顧客のかゆいところに手が届くような仕事をしないと長続きしません。

 若手には「周囲から愛されるファンをつくる」「失敗を恐れず何事にもチャレンジする」ことを心掛けてもらいたい。一人で完結させようとして失敗する若者の姿をよく目にします。上司や先輩にうまく頼ることが苦手なのかもしれません。社内外でファンを増やしながら、失敗も成長の糧にステップアップしてほしいです。

営業マンとして駆け出しだった入社19年目、九州支店の同僚らと
(右から2人目が本人)

 (みつた・ひでゆき)1981年熊本大学工学部環境建設工学科卒、三菱建設(現ピーエス三菱)入社。九州支店副支店長、建築本部副本部長、執行役員東北支店長などを経て2020年4月から現職。熊本県出身、63歳。

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