営業マン時代、良いものを一緒に造る思いで歩き回った |
「良くも悪くもいろいろなことを経験した」-。配管機材メーカーで働く江口祐紀さん(仮名)はこれまでの社会人生活をこう振り返る。入社後、東京本社の製品図面担当部署で、約5年間、図面作成の知識を蓄え、技術の研さんに力を注いだ。それからは福岡、広島、大阪、愛媛といろいろな場所に赴任し、プロジェクトに最適な製品を提案してきた。
地方勤務になると図面作成業務と客先への営業を一人で担う。大きな金額を扱う仕事を一人で任されることも多かった。最初は、営業という仕事がうまくできるだろうかと不安だった。大学生のころに飛び込み営業のアルバイトを経験し、営業向きの人間でないと思っていたからだ。ただ、働いていくうちに営業という仕事が楽しくなり、そつなくこなせるようになった。江口さんは「セールスエンジニアになれた」と自信がついていった。
ランドマーク的な建物に携わる機会も多かった。個人として呼ばれて仕事ができる面白さにひかれた。
工事現場に自社製品を直接売り込みに行き、現場の所長や図面担当者と技術論で盛り上がることもあった。打ち合わせでは、「建物にとって最善の物は何か」を考え、他社製品でも優れていたら提案に盛り込んだ。良い建物を作りたいという気持ちが通じた相手からは「江口さんだから打ち合わせをする」「江口さんだから買う」と言ってもらえる良い関係が築けていった。「江口さん、何かいい物を持ってきて」と個人として直接頼まれることも増え、高額であっても言い値で契約に結びついていった。
江口さんが個人として会社の売り上げに貢献していた中で、会社も成長していった。製品を作れば売れる時代。国内でインフラ整備が進み、業績は右肩上がりだった。
当時の社長はワンマン経営で会社を成長させた。ただ、製品を作れば売れる時代を経験した社長は、なりふり構わずいろいろな事業に投資していた。そんな会社の姿に危機感も覚えていた。
景気の雲行きが怪しくなると状況は一変した。潤沢だったはずの利益は湯水のように消え、結果的に倒産に追い込まれた。「成功した投資事業は数えるほどで結局、千三(せんみ)つだった」と江口さんは振り返る。倒産を告げられたときのことを今でもはっきりと覚えている。覚悟していたものの大きなショックを受けた。
民事再生となり、新会社として立て直しを図ることになった。江口さんは幸いにも新会社に残れたが一緒に働いていた仲間は採用されずに悲しい思いをした。
経営側の立場に就いた今、会社として何ができるかを最優先で考えている。昔の自分は「個人商店」だったと思う。それが力を発揮することもあるが個人には限界もある。「10人いれば10人で仕事を進める」。それが今の方針だ。ワンマンな社風はすぐには変わらないが、経営陣一丸となって組織として戦うモードに切り替えた。苦い思いを忘れずにこれからも働いていく。
0 comments :
コメントを投稿