2021年2月1日月曜日

【駆け出しのころ】パシフィックコンサルタンツ取締役常務執行役員・藤原憲男氏

  ◇自らの意志を込める◇

 大学時代に会社訪問でパシフィックコンサルタンツに伺い、面談した方から1カ月ほどアルバイトしてみないかと誘われました。自由闊達(かったつ)な社内の雰囲気や国のプロジェクトに携われることに魅力を感じたのを覚えています。

 入社後は2カ月の研修を経て札幌支社(現北海道支社)に配属。当時の支社は仕事がそれほど多くなく、今日は道路の仕事、明日は鉄道といったように何でもいろいろやりました。

 2年ほど特に自分の専門を持たず、小間使いのように働く日々に焦りを感じ、自分の存在価値に悩んだこともありました。後から振り返れば、さまざまな分野の人と出会い、それぞれの仕事の仕方などを経験できたのはよかったです。

 札幌支社の方々には仕事だけでなく、遊びの大切さも学びました。公私のバランスをしっかり取って自分の時間を大切にしないと、心が豊かにならず、より良い発想も生まれてこないと諭されました。どんなに忙しくても、休日には上司や先輩たちとスポーツなどで遊んだことは楽しい思い出です。

 3年目には1年ほど東北支社に社内出向し、そこで国が進める高規格幹線道路の計画に携わることに。広い部屋を借り、東北管内全域をカバーする市販の地形図を貼り合わせ、熱いものを感じながら赤鉛筆で路線の通過帯を書き込みました。最初の2年間で知識の幅や社内外の人脈が広がったことも、関連する領域が広範な道路計画の仕事に役立ちました。

 30代半ばに東京本社へ異動。最初に担当したのは東京都の環状2号線(新橋~虎ノ門、通称マッカーサー道路)。地方経験しかない自分にとって、都心の地下に道路を構築し、さらにその上には立体道路制度を利用して再開発ビルが立つプロジェクトは未知の領域でした。

 地権者や換気の問題、都市計画関連の手続きなど、寝ても覚めてもマッカーサー道路のことばかり。苦労は多かったですが技術者として成長できました。当社への随意契約業務で発注者の方から「君に頼みたかった」と言われ、お世辞でも技術者冥利(みょうり)に尽きる言葉でした。

 できない時はできないとはっきり伝える。きれいごとでは済まないことも多々あります。ただ言われた通りにするのではなく、優先順位の高いものが何かを俯瞰(ふかん)的に捉え、技術者として論理付けて案を示す。若手にはもの怖じせず、発注者など相手の要望を聞きながらも、自分の意志を込めたものを提案してもらいたい。

 信頼を培い、次世代にどれだけの仕事を残し、つなげていけるか。今のことだけを考えるのではなく、先を見据えて目の前の仕事に取り組むことも大切です。

入社3年目、札幌支社の上司や先輩と参加した
クロスカントリースキー大会で(左から3人目が本人)

 (ふじわら・のりお)1983年東洋大学工学部土木工学科卒、パシフィックコンサルタンツ入社。プロジェクト事業本部長や首都圏本社長、大阪本社長などを経て2020年から現職。岩手県出身、61歳。

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