2015年8月10日月曜日

【駆け出しのころ】青木あすなろ建設取締役東京建築本店長・今井宏氏


 ◇偽りのない真実に勝るものなし◇

 祖父が松山で大工の棟梁をしていたこともあり、小さいころから将来は建築関係の仕事をしたいと思っていました。祖父は寡黙でしたが、華道と茶道もたしなみ、そんな姿に憧れていたのかもしれません。
 入社して名古屋の建築現場で3カ月間の研修を受けた後、東京都内の病院建築工事の現場に配属となりました。この現場は所長が事務系、主任は木造建築の経験しかない方だったため、私を含めた新入社員2人が第一線でいきなりいろいろなことをやらなければならない状況に置かれました。
 とにかく頼りは協力会社の人たちで、さまざまなことを教わりながら施工を進めていきました。気の荒い作業員もいましたが、一緒に汗をかいて働いていると分かり合えるもので、独身だった私におにぎりを持ってきてくれる人もいました。当時は実際の作業も協力会社の人たちと一緒にやっていましたので、作業員の苦労を身に染みて分かりましたし、自らの体で覚えた分だけ工程管理にも少なからず自信が付いていきました。
 最初は施工図の書き方も分からず苦労しました。1枚の図面を書くのに1カ月もかかっていたほどで、先輩から「工事に間に合わない」としかられることも多々ありました。これでは作業員たちからバカにされてしまうと、自分から進んで書くようにしていました。そうやって数を重ねるうちに少しは満足な施工図が書けるようになると、施工図書が頭に入り、協力会社の人たちにも適切な指導ができるようになったのを記憶しています。
 私は若いころから、残業したからといって良いものができるわけではないと考えていました。重要なのは時間をどう効率良く使うかです。自分が所長になってからも、部下にはやるべき時にやるべきことをやって「楽をしなさい」とよく言ってきました。
 作業所で責任あるポストに就くに従って自信がなくなったり、落ち込んだりしたこともありました。しかし、コンクリートにも負けない体力と、鉄筋よりも強靱(きょうじん)な精神力を養い、自信を持って施工管理に当たろうと自分自身を奮起させてきたことで、精神的には強くなれました。少しでも良い品質を目指して完成させた建物にはひとしおの思いがあり、これが長く現場に携わることができた要因だと思っています。
 若い時の自分もそうでしたが、人間というのは自分を良く見せようとします。ところが、自分がいくらそう思っても、他の人は冷静に見抜いているものです。外勤や内勤を問わず、「偽りのない真実と事実に勝るものはない」とつくづく感じています。


 (いまい・こう)1971年愛媛県立松山工業高校建築学科卒、小松建設工業(02年あすなろ建設)入社。執行役員東京建築本店建築工事部長、青木あすなろ建設執行役員、常務執行役員などを経て、現在は取締役常務執行役員建築統轄本部長兼建築技術本部長兼東京建築本店長。愛媛県出身、62歳。

二十歳前後のころに現場事務所で。当時はビートルズがすきだった


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