◇つらさより最後はうれしさ上回る◇
高校時代、通学途中に見ていた北九州市立中央図書館、サッカーの試合の際に福岡市で見た福岡銀行本店に深く感動しました。当時を代表する建築家の磯崎新さん、黒川紀章さんといった方々が設計した建物は今でも輝きを失っていません。自分もこのような建物を造ってみたいという思いが膨らみ、建築の道を志しました。
就職時に大学の担当教授の薦めもあり、建築事業を伸ばしていた飛島建設に入社しました。最初の赴任地は沖縄の琉球大学医学部新営工事の現場。スーツで事務所を訪れた初日早々、作業着に着替えて生コンの打設作業を手伝いました。翌年4月の開校に向け、ほとんど休みなく猛烈に作業が進められ、最初はそのスピード感に戸惑ったのを覚えています。
これからやっていけるのかと少し不安に思うところもありましたが、建物が竣工した時の喜び、達成感で不安も、苦労も一気に消え去りました。
入社2年目に種子島の病院改築工事を担当。現場職員は所長と私の2人だけ。所長から懇切丁寧な指導を受けながら施工図を書きました。専門業者への図渡しまでに間違いがないよう無我夢中でドラフターに向かい続けたことで、その責任の大きさと図面の大切さが体に染みついたと思います。
そのころ会社から配布された「建築仮設物の構造計算」という本を読み込み、足場や型枠などの検討も独力で行ったのが自信になりました。
特に思い出深い現場は30代前半に担当した宮崎県立芸術劇場。世間的にはバブル経済がはじけていましたが、劇場の設計・デザインは大変華やかで、細かい金属部材の建具をふんだんに使っています。現場では工務を担当し、膨大な金属建具の製作を任されました。建具を決めることは、収まりなど建築のすべてを分かっていないとできず、コンサートホールの特殊建具などを含めて大変勉強になった現場です。
劇場完成時のこけら落としで来日したプラハ交響楽団のリハーサルを、工事関係者も聴かせていただきました。隣の席で鑑賞していた婦人が涙を流しながら話された「宮崎でも(素晴らしい音楽を聴ける)このようなところができたのですね」という言葉と、その時に演奏されたスメタナの交響詩モルダウの叙情的な響きは今でも心に残っています。
ゲーテの文章に「常に良い目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる」とあります。人生には仕事に没頭する時期が必要で、20代はそれができる期間ではないでしょうか。尊敬できる先輩や上司から素直に学ぶことも大切です。建設の仕事では大変なことやつらいこともありますが、最後には必ずうれしいことが上回ります。
入社2年目ころ、種子島の作業所では所長から マンツーマンで指導を受けた(左側が本人) |
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