2022年1月31日月曜日

【駆け出しのころ】佐藤工業取締役兼常務執行役員土木事業本部長兼デジタル推進担当・宮澤竹久氏

  ◇「どうすればできるか」考えて◇

 小さい頃旅行先で、何げなくダムやトンネルを見て、「どうやって造ったのだろう」と興味を持ったことが建設業を志したきっかけでした。大学進学で土木工学科を選び、就職活動ではゼネコン以外に公務員試験も受け合格したのですが、「現場に行きたい」という思いが強く、ゼネコンへの入社を決めました。

 最初に配属されたのは伊豆のリゾート施設でした。造成工事の他、流れるプールなどを造るのが仕事でした。その当時印象的だったのは、先輩から「お前が危ないと思ったことは止めさせろ」と言われたことです。まだ現場に慣れていない素人同然の自分から見て、危ないことは本当に危ないという意味でした。現場経験を重ねるごとにその言葉の大切さを実感し、今では自分が若い職員に言うようにしています。

 施設は配属から1年半ほどで完成し、オープニングセレモニーにも出席させてもらいました。完成の喜びを知った経験は今でも忘れられません。

 最も尊敬する上司に出会ったのは、30代前半に配属された鳥取県の農道工事の現場です。都市土木工事の経験しかない自分にとって、考えもつかない驚くような発想をする人でした。急峻(きゅうしゅん)な山の上や谷底で掘削する際は、「こんな方法があるのか」と驚くような方法でバックホウを移動させる計画を指示されました。大変難しい計画でしたが、どうにかその指示に応えられるように努力しました。コスト管理にも厳しく、生コンの打設中に「人数をかけすぎだ」と叱られたこともあります。

 工事完成の翌年、鳥取県西部地震で震度6強の揺れが現場を含む地域を襲いました。現場近くに住む人に聞いたところ、付近の国道が崩れ通行できず、代替道路としてその農道が利用されたそうです。

 41歳で初めて所長として手掛けた横浜市営地下鉄の工事は一番思い出深い現場です。全部で20工区程ある大きなプロジェクトで、発注者からは「この工区が遅れると地下鉄の開業が遅れてしまう」と言われ大変プレッシャーがありました。工程を早めるために施工しやすい工法を検討したり、工程を工夫したりして発注者に提案しました。

 現場見学会には1日に2000人以上が訪れ、多くの人に工事の大変さ、大切さを理解してもらいました。最終的には地下鉄の開業に影響することなく完成させました。開業時の感動はひとしおで、現場職員や協力会社の人たち20人程で一番電車に乗ったことは大切な思い出です。

 多くの現場を経験しましたが、現場は千差万別で一つとして同じものはありません。施工する人が変われば施工方法も変わります。若い人には、「この機械はどうやって動いているのか」など、興味深く現場を観察してもらいたい。「できない理由ではなく、どうすればできるか考える」という意識を持って、常に前向きな気持ちで取り組んでほしいと思います。

入社2年目ころ、横浜支店の有志と登った富士山の山頂で
(後列左から3人目が本人)

 (みやざわ・たけひさ)1988年武蔵工業大学(現東京都市大学)大学院工学研究科修了、佐藤工業入社。2020年執行役員土木事業本部長、21年取締役兼常務執行役員土木事業本部長。神奈川県出身、57歳。

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