2016年2月29日月曜日

【駆け出しのころ】ライト工業取締役海外事業本部長・宝輪洋一氏

 ◇絶対に諦めない心をつなぐ◇

 就職先を決める時、大学でゼミの教授に「君は体力に自信があるか?」と聞かれ、「頭は体育会系です」と答えました。そうして紹介していただいたのが今の会社です。同じ建設業界で働いていた伯父からも「専業トップの会社であり、この道のオーソリティーになれる」と後押しを受け、迷うことなく入社しました。

 当時は東北新幹線や上越新幹線などの工事が花盛りのころで、そうした工事に多くの先輩たちが従事していましたし、新入社員の多くも配属されました。一方で都心部も電電公社(現NTT)のケーブルトンネルや下水道、地下鉄など地下インフラの建設工事がめじろ押しでした。

 このため東京第1支店技術課に所属していた私も都市土木の現場にすぐ出ることになりました。その後も技術課と現場を何度か行き来します。こうした3年間、いろいろと勉強になり、恵まれた環境にあったと思っています。

 都市土木に関連する専門土木分野のうち、主に薬液注入工法という地面から下の仕事に17年ほど携わってきました。地下100メートルの薬液注入工事や大断面シールドが発進・到達する部分の改良工事、小さなマンホールに潜っての作業や一日中ずぶ濡れになっての作業など、どれも難しく思い出に残る現場ばかりです。

 目に見えない地中の構造物や工作物などを造って引き渡すのが、私たちの仕事です。お客さんはそれがしっかりできていると信頼し、次の工程に取り掛かります。つまり、私たちは安全と安心を届けているのです。責任重大ですが、それだけ大きな達成感も得られます。どんな難局に直面しても「俺たちしかいない」と絶対に諦めないことが大切です。これは次の世代にもぜひ継承していきたいことです。

 40歳を前に現場勤務から営業職に変わり、その数年後に札幌支店に異動します。支店では道内各地の岸壁改良工事の開拓で実績をつくり、また都市土木の技術営業でも道内を飛び回った6年間でした。かつて東京でお世話になった方から声を掛けていただき、札幌支店にいながらシンガポールの地下鉄建設工事に携わったこともありました。

 振り返ると、これが大きな転機となりました。北米の子会社に出向して運営を任されることになったのです。この時49歳でした。英語力もなく、不安と困惑でいっぱいでしたが、「やれるものならやってみろ」の思いで何とか乗り切ることができました。建設業は裾野が広く、ほとんどすべての産業に関わります。後輩たちには体力と知恵を総動員し、陽気なプロフェッショナルを目指してほしいと期待しています。

 (ほうわ・よういち)1979年法政大学工学部土木工学科卒、ライト工業入社。札幌支店営業部長、執行役員海外事業部付部長、RAITO,INC.社長(現任)、執行役員海外事業担当、執行役員海外事業本部長などを経て、10年6月取締役海外事業本部長。北海道出身、60歳。

東京第1支店時代の社員旅行で川治温泉を訪れた時の1枚
(1985年、前列左端)

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