◇技術者のプライドを教えられる◇
入社して最初に配属された現場は、神奈川県内のマンション建築工事でした。ここで先輩と一緒に墨出しをしている時のことです。風が吹いて飛ばされそうになった図面をとっさに足で踏んで押さえると、その先輩から「貴様、神聖なる図面を踏むとは何事だ!」とものすごい勢いで怒られたことがありました。
突然のことでびっくりしましたが、すぐに意味が分かりました。当時の施工図は職員が自らの手で書いていましたので、一枚一枚に対する思い入れが強く、技術者としてのプライドが詰まっていたのです。それを新人が踏んだのですから、怒られても当然でした。
入社2年目になり、大学の夜間(二部)に通い始めました。入学試験に合格するまでは誰にも言わず、合格してから会社にお願いして認めていただきました。高校時代はレスリングに熱中し、そのまま進学せずに就職することを選んだため、社会人になってから勉強したいという思いが強くなっていました。
在学中は一日の仕事を必ず終えてから大学に行くようにしていました。次第に大学での課題が増え、仕事との両立に悩んだ時期もありました。でも「良い成績を残そうと思わず、とにかく卒業しよう」と割り切ると、次第に気持ちが楽になっていったのを覚えています。卒業できたのは会社の理解と協力があったからです。通っている時はかなりのプレッシャーがあったのか、30代半ばの頃まで、「あの単位が足りない」と焦っている夢をよく見たものです。
初めて所長を任されたのは28歳の時で、学校の体育館建設工事でした。発注した物が所定の時期までに納入されず、そのメーカーに出向いて「遅れて余計にかかる費用を負担するという念書を書いてほしい」と直談判したこともあります。今振り返ると、若造だった自分がよくそんなことを言ったものだと思いますが、ある工程が遅れた責任を後工程の人たちに負わせるわけにはいきません。それに卒業式までに工事を完成させることが必達目標でしたから、とにかく「何とかやり切らなければ」という考えで動いていたのでしょう。
若い人たちには、人と人との触れ合いを大切にしてほしいと思っています。相手が何を考えているかというのはメールだけでは分かりません。建設は一人でできる仕事ではなく、人と接しながらいろいろなことを吸収していってほしいと思います。
現場にはうるさくておせっかいな親方がいたものです。でも心はとても温かい人たちです。私たちは「おやじ」と親しみを込めて呼べるこうした人から多くのことを学びました。これからも現場にはそんなおやじさんがもっといてほしいと願っています。
(まつもと・ふみあき)1976年長崎県立島原工業高校建築科卒、松尾工務店入社。82年関東学院大工学部第二部建設工学科卒。積算部長、第一建築部長、執行役員、取締役、常務建築本部長を経て、16年4月から現職。長崎県出身、59歳。
入社3年目、神奈川県内の現場で |
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