2021年10月25日月曜日

【駆け出しのころ】フジタ取締役常務執行役員国際本部長・君島誠司氏

  ◇相手を尊重し海外に夢を◇

 とにかく海外で仕事がしたい--。就職活動をしていた頃、商社やゼネコンが海外に多くの社員を派遣しており、真っ先に内定をもらった当社も中東を中心に約700人が海外で働いていました。

 入社後、思惑と違って九州支店に配属。沖縄の米軍基地にある小学校の建築工事を1年ほど担当します。契約など事務手続き関係はすべて英語を用い、基地に一歩入ればそこは外国。現場に出て安全管理や職人の作業支援なども行いながら、建設会社の仕事を学ぶことができました。

 その後、東京支店に異動し、入社5年目の1989年に大きな転機を迎えます。社命で北京に語学留学を予定していた社員が急病になり、代わりに私が行くことになりました。中国語の勉強以上に多国籍の留学生らとの交流が新鮮でした。しかし訪中から1カ月過ぎて天安門事件が発生。デモ隊と衝突して殺気だった軍隊が引き上げ時に周囲を威嚇射撃し、建物の窓ガラスが割れるなど怖い思いもしました。

 特別機で日本に帰ってから2週間後には、中国・西安の日中合弁のホテル開発プロジェクトの担当としてすぐさま戻ります。中国側が土地を提供し、当社が資金を拠出し建設したホテルを日系のホテル会社が運営。社員は技術系3人と事務系の私の4人が駐在していました。

 事件の影響で事業はスローペースでしたが、中国側の代表者らとホテルの組織や完成後の事業スキームなどを、じっくりと検討しました。買い集めた専門書で調べたり中国人スタッフに教えてもらったりと勉強の毎日。日本とは異なる価値観を持った人たちと一緒に仕事をすることは、苦労もありましたが楽しかったです。

 中国ではいろいろな要因で条件が変わるので、日本のように最初から緻密な計画やスケジュールを立てる習慣があまりなく、その時々でフレキシブルに対応します。日本のやり方を一方的に押し付けるのではなく、現地の人たちの意見を尊重し、うまくすり合わせながら事業を進めることの大切さを学びました。

 西安の後は、上海を拠点に投資案件だけでなく、日系企業の工場案件などの営業にも飛び回りました。通算24年にわたって中国の仕事に携わり、中国市場に進出している日系ゼネコンでトップを目指しました。現地のサブコンの活用や中国人所長の育成など、他社に先駆けて現地化に取り組み、競争力を高めていきました。

 私は日本よりも海外の方が性に合っていると感じています。海外の仕事ではつらく、苦しいこともありますが、国内では得られない面白みがあり、見識も広がります。若い人たちには海外に夢を持ち、内にこもらず知らない世界に率先して飛び出してもらいたいです。

入社10年目、西安のホテルで開いた中国側スタッフ
との懇親会で(左から4人目が本人)

 (きみしま・せいじ)1985年明治大学政治経済学部経済学科卒、フジタ工業(現フジタ)入社。藤田中国総経理、経営改革統括部長、国際本部長(現任)などを経て2020年から現職。神奈川県出身、59歳。

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