2017年5月15日月曜日

【駆け出しのころ】熊谷組執行役員建築事業本部副本部長・大野雅紀氏

 ◇達成すべき物事を見付けて◇

 大学の建築学科に入ったのはものづくりに興味を持っていたからですが、建築家の清家清さんがコーヒーのテレビコマーシャルに「違いがわかる男」として出演されていたのがとても印象的でした。

 熊谷組に入社したのは昭和57(1982)年です。当時の建設業は斜陽産業と言われ、就職難の時代だったと記憶しています。私が就職試験を受けたのは1社だけで、「落ちたらどうしようか」と心配でしたが、多くのゼネコンの中でも元気が良かった熊谷組に魅力を感じ、入社していずれは海外で働いてみたいとも考えていました。

 最初に配属されたのは九州支店の建築現場です。山を切り開いて大型保養施設を建設する工事で、ここでは敷地があまりに広くて高低差も大きく、一般的な建築の測量とは異なっていたため、造成を担当していた土木の人たちに測量をお願いしていました。ある日、建築の主任が土木の後輩に頭を下げているのを見て、私は「これぐらいのことならできます」とつい言ってしまったんです。

 そうして測量を任されることになり、何とかやり遂げることができたものの、「絶対に間違えられない」と毎日が気が気でありませんでした。夜も「本当に合っているのか」と測量のことが頭から離れず、相当に思い悩みました。

 そんな中、機会があって鹿児島の開聞岳に登ったことが大きな転機となります。「薩摩富士」と呼ばれるきれいな山で、ここから私たちの現場が遠くに見えたのです。小さな点でしかなかったのですが、それを見て「自分は何でこんな小さな所で悩んでいるのか。世界はもっと広いんだ」と気付き、それまでの悩みを吹っ切ることができました。今でもこの時の感動を忘れられず、いい経験になりました。

 九州支店に10年いた後は、当時の関東4支店(東京、北関東、東関東、横浜)、東北支店、北陸支店で建築施工に携わります。社内でもこれほど異動した建築技術者は珍しいかもしれません。東日本大震災が起きた時は東北支店で建築部長を務めていました。

 辞書で調べると、人間の能力は「物事を達成する力」とあります。物事とは人によって異なり、これを見付けることが人生であると思います。見付けた時に本当の自分に会えるのではないでしょうか。だから、一つの失敗で落ち込むことはありません。

 私たちと若い人たちとでは育ってきた環境が違い、同じ道を同じように歩かせては皆がバテてしまいます。これからは目指すものが一緒でも違うルートを登っていくのでしょう。それを見付けてあげるのも私たちの大切な役割だと思っています。

 (おおの・まさき)1982年東京理科大理工学部建築学科卒、熊谷組入社。東北支店建築事業部建築部長、北陸支店建築部北陸新幹線糸魚川駅新築工事作業所長などを経て、16年4月から執行役員建築事業本部副本部長兼建築統括部長兼建築統括部建築部長。島根県出身、57歳。

最初の現場で思い悩んでいた時、山に登ったことが大きな転機になった
(鹿児島県の開聞岳で)

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