2021年7月20日火曜日

【駆け出しのころ】日本国土開発取締役副社長執行役員管理本部長・曽根一郎氏

  ◇腹をくくってまず行動◇

 建設産業は基幹産業の一つであり、大きな資金を投じる仕事という点に魅力を感じました。入社後は九州支店に配属。社会人になるまで東京から出たことがなく、何も分からないまま、福岡市内のシールド工事現場に2カ月ほど在籍しました。現場事務所の1階に寝泊まりしながら、現場の整理整頓や資材の荷下ろしなど力仕事の毎日。当時のセメントは1袋の重さが約40キロで担ぐのに苦労しました。

 事務職で技術的なことは分からず、所長に「地元を回って顔を売ってこい」と言われ、現場近くの食堂に毎日通うなど、地域の方々との良好な関係づくりに取り組みました。ある日、外回りの合間に休んでいた時、地盤改良で注入していた薬液が地上に噴き出す事故が起きました。非常時の地元対応ができず、所長から「どこで何をしていたんだ」と厳しく叱られたのを覚えています。

 最初の現場から支店の経理担当へ異動した直後に長崎大水害が発生し、新入社員も被災地や現場の支援に駆り出されました。大規模な宅地造成の現場の応援では事務所に徹夜で待機し、雨が降ったら土石流など災害の危険性がないかを見て回りました。

 入社3年目から沖縄の現場事務を4年担当。当社はトンネルやダム、道路、嘉手納基地の関連施設、上下水道など、かなりの量の仕事を各地で行っていました。当時の事務担当は大きい現場を主務地とし、その他の現場には女性の事務員を置いて定期的に見て回るのが基本スタイル。体は一つですから、現場のことがある程度分かってくると、多少濃淡を付けてポイントを押さえながら効率よく回るようにしました。

 主務地でないへき地の現場を回る時が一番大変。仕事が終わり、寂しがり屋の所長たちとの夜の付き合いは、沖縄タイムで翌日未明まで続きます。道路に寝転がり、朝日で目を覚ましたこともありました。

 沖縄で最初に担当した導水路トンネルの現場では、目の前の仕事や今後の会社人生をいろいろと考え、迷いも多かったです。常に危険と隣り合わせの現場で、技能者・技術者が山を掘り進めていく姿に力強さを感じる一方、自分は何もできていないと思う葛藤の日々。事務屋ながらも同じ土俵に立ちたいと思い、その後に土木施工管理の資格を取得しました。

 沖縄から支店に戻り総務を経て購買を担当。バブル期で鉄筋など資材確保に奔走する大変な時期でした。業界団体の資材研究会のメンバーの方々にも助けられました。

 若いころは何でも任され、自己流でも会社がそれを認めてくれたので、恵まれていたと思います。任されたのだから腹をくくってまず行動。若い人たちには「Never too late」の精神で恐れずに動いてほしいです。

入社3年目、迷いも多かった沖縄のトンネル工事現場で

 (そね・いちろう)1982年成蹊大学工学部経営工学科卒、日本国土開発入社。経営企画室長、関連事業本部長などを経て2021年6月から現職。東京都出身、61歳。

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