鉄道工事に携わる技術者にとって上野駅は特別な存在 |
◇次の世代に奮闘する姿見せたい◇
「すごい所に来てしまったな…」。7年前、東京・上野駅に降り立った広辺大勝さん(仮名)は、東京を代表するターミナル駅の迫力に圧倒された。当時の広辺さんは20代後半。鉄道工事を中心に手掛ける建設会社で働き始めて10年目に、地元の高崎(群馬県)から東京都内に勤務先が変わった。事務所があったのは上野。鉄道工事に携わる技術者にとって、上野駅で働くことは一種のステータスだった。「いつかは行ってみたい」という願いがかなった。
ものづくりの仕事を初めて意識したのは中学3年生。進路を決める時、「目に見えるものを造りたい」と工業高校の建築科を選択した。工高3年生だった2000年代前半は建設不況のまっただ中。心のどこかに「ゼネコンはちょっとな…」という気持ちもあった。だが就職担当の先生に今の会社を紹介され、「やってみるか」という思いで建設の世界に飛び込んだ。
入社後に配属されたのは高崎や渋川といった北関東エリア。人員も工事費も限られる中で現場をやりくりするすべを学んだ。自信が持てるようになった時期での転勤。赴任した東京の現場は全く違った。鉄道利用者の多さや工事量、スケールが桁違いだった。
東京での仕事は基本的には高崎にいた時と同じ。線路の検査やメンテナンス、他現場の応援などがメインだった。とはいえ東京は作業に関わる人材が多く工事費は多額。施工方法の自由度も高かった。上司は「やりたいようにやってみろ」と言ってくれたが、いざやろうとしたら技術者としての引き出しが少ないと気付く場面が度々あった。
初めは自身の未熟さがもどかしく感じた。落ち込むこともあったが「手段がたくさんあるのならとりあえずやってみよう」と前向きに捉えるように心掛けた。上野に赴任して1年余りがたった頃には、やりたいこともたくさん思い付くようになり、仕事が楽しく、やりがいを感じるようになった。話題になった新駅の工事にも微力ながら携わることができた。最初はおっかなびっくりだったが、結果的には「東京に来て正解だった」と思えた。
約6年の東京勤務。最後の1年はコロナ禍に見舞われた。鉄道事業者の収入が激減し、自分の仕事も減った。くよくよしても仕方がないと気持ちを切り替え、余裕ができた時間を使いこれまでの仕事を後輩にフィードバックするようにした。「一生こんな世の中で終わるはずがない」。いつか息を吹き返す時のために今やれることに力を注いだ。
今年4月から新潟県の拠点で線路の保守・点検などに携わっている。現場の生産性向上などに有効な技術を、社内に水平展開していくことが今の目標。優秀な職人がいる協力会社が元請から離れていってしまう時代。現場の環境を改善し人材をつなぎ留めることが急務だ。自分が若い頃、現場で奮闘する先輩の背中を見てきた。「今度は自分の番。現場の改善に奮闘する姿を次の世代に見せる時だ」と思っている。
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