2019年5月27日月曜日

【駆け出しのころ】東洋建設執行役員土木事業本部土木技術部長・小倉勝利氏

  ◇謙虚に同じ目標へまい進◇

 建築関係の仕事をしていた父親に連れられ、子供のころに現場を何回か見に行ったことが、建設の仕事に興味を持ったきっかけだと思います。志望大学を決める時、橋や道路、鉄道といった土木構造物への関心が強まり、土木の学科を選びました。

 縁あって入社が決まり、最初に赴任した福島県の小名浜事務所でケーソンの現場を担当しました。方言と専門用語が混じった作業員の方々の話は理解するのが難しく、無線を使い早口で話されると何を言っているのかさっぱり分かりません。事業量の多い事務所で毎年1人は新人が入っていたため、歳の近い先輩たちが周りにいました。休みは十分取れず忙しかったですが、夜は先輩たちと港町によく飲みに行き、英気を養いました。

 入社3年目のころ、当時の所長に喫茶店へ連れて行かれ、しかられたことがあります。現場で働いている人たちに対して横柄な態度があったのか、自分ではよく分かりませんでしたが、「さっきのお前の態度は何だ」と静かな口調で諭されました。非常に厳しい方だったので、怒鳴らず静かに話されたのがよけいにこたえたのを覚えています。

 その後、外部のコンサルタント会社に出向し、設計や技術検討などの面白さを知りました。出向した当初は「現場に出たい」との思いもありましたが、基準関係や標準積算など現場の基礎的な部分を勉強するいい機会になりました。

 羽田空港に4本目の滑走路(D滑走路)を造ったプロジェクトは忘れられない仕事の一つです。受注前の事前検討から受注後の実施設計など関連業務を担当しました。3年半という厳しい工期の中で、24時間・365日、現場は稼働しており、毎年の初日の出は現場事務所から眺めました。発注者や15社JV、協力会社など、関係者全員が同じ目標に向かって協力できたから、これほどの大規模プロジェクトを短期間で成し遂げられたと思います。

 羽田の現場を終えて東北支店に移った直後に東日本大震災が発生しました。地震よりも津波に対する考え方が従来と異なり、技術者としても目の前の事態を受け止めきれないほどの災害でした。支店内では多い時に約30カ所の現場が同時並行で動いており、工事を円滑に進めるための事前検討の会議を頻繁にやっていました。若いころの思い出の地でもある小名浜港の現場には思い入れもあり、何度も足を運びました。

 いろんな立場の人たちが同じ目標に向かって働く現場では、おごることなく謙虚な姿勢が大切です。若い人たちには、将来の大規模プロジェクトに携われるよう、経験と実力を積み重ねてほしいと思っています。

入社4年目ごろ、最初に赴任した小名浜港の現場での一枚(後列左端が本人)
(おぐら・かつとし)1985年横浜国立大学工学部土木工学科卒、東洋建設入社。東京支店土木技術部課長、東北支店土木技術部長、土木事業本部土木技術部長などを経て、2019年4月から現職。岐阜県出身、56歳。

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