◇安全・安心担う仕事に誇りを◇
高校時代に街中の道路で建設機械が動いているのを見て、「格好いいな」と思ったのが土木を志したきっかけです。大学の教授の薦めがあったほか、地元が響灘に面し、海への親しみが強かったこともあり、海洋土木の三井不動産建設(現みらい建設工業)に入ることになりました。
最初の配属先は秋田・能代港の護岸工事現場。着任早々の5月下旬に日本海中部地震が発生しました。現場が津波に襲われ工事全体で30人超が亡くなる大惨事となります。私はなんとか難を逃れましたが、自然の恐ろしさを思い知らされました。発災後は行方不明者の捜索と御遺体の搬送、現場の残務処理などで純粋な工事の経験はほとんどなかったですが、非常時の対応など学んだことは少なくありませんでした。
その後、秋田県内の下水道関連の現場に異動しました。現場の苦労を味わいつつ、最後の作業が終わった時に味わった達成感は今も忘れられません。思い描いていた仕事ができた喜びと感動があったからこそ、今もこの仕事をやり続けています。
南方の九州出身だったこともあり、秋田勤務は冬の寒さがつらかったです。冬場の開削工事では路盤が凍り、バックホウの爪が折れることもありました。地元の方言が分からず、住民説明会などでコミュニケーションを取るのも、最初はひと苦労でした。
そんな秋田勤務は途中3年の本社勤務も入れて20年ほど続きます。結婚して子どもが生まれ、秋田に腰を下ろすことになりました。自宅から離れた場所での現場勤務は平日が単身赴任、自宅に戻るのは週末だけというとんぼ返りの日々。幼い子どもに「パパまた来てね」と言われるたびに、悲しくも面白い気持ちになりました。
入社15年目ごろ営業部門に移ります。突然言われた時は納得できず、会社を辞めてやると思ったほど。仕事が取れ出すまでの3年ぐらいは面白みを感じられず、まだまだ現場でやりたいという気持ちが残りました。営業ではまず自分の存在を相手に認識してもらうことが大切です。役所や客先に通い詰め普通の世間話ができるまで、時間が掛かり苦労しました。
当時、どんなに苦しい時も営業先で絶対にマイナスなことを言わず、陰口を決して口にしない先輩に付いていたことがあります。そんな姿を見習っていると、苦労が苦労と感じなくなりました。
東北支店長の時に東日本大震災で津波を経験します。誰もいない港には道路や航路の啓開に建設会社が入ってきます。他は自衛隊ぐらいしかいない。若い人たちには、有事の安全・安心を担っているのは建設会社、誇れる会社と思って日々の仕事にまい進してもらいたいです。
入社2年ころ、夜勤明けの下水道工事現場での一枚 |
0 comments :
コメントを投稿