2021年4月21日水曜日

【駆け出しのころ】東亜建設工業執行役員土木事業本部技術部長・川森聡氏

  ◇体験からいろいろな学びを◇

 北海道の日本海側の小平町で生まれ育ち、幼いころから海辺でよく遊んでいました。隣の留萌市には世界の中でも特に波が厳しい「三大波濤(はとう)港」の一つに挙げられる留萌港があり、荒波のエネルギーのすさまじさを間近で見てきました。

 就職活動ではマリコンを志望し、大学の教授からの勧めもあって当社に入社しました。高校時代に留萌港でフローティングドック(FD)からケーソンが進水する様子を「変わった船だな」と眺めていたのが、当社のFDだったことを後から知って不思議な縁を感じました。

 最初に配属された秋田港でのFDによる防波堤ケーソンの製作現場では、技術的なこと以上に苦労したのが言葉の壁。地元の作業員だけでなく、発注者の方もなまりがきつく、会話を理解するのに半年以上かかりました。作業員には兼業農家の方が多く、田植えや稲刈りなど繁忙期は現場に出てきません。地元ならではの諸事情も踏まえて工程を組むことが求められました。

 3年目には大規模な水産加工団地の汚水管改修工事で現場所長を任されます。濃度の高い硫化水素が発生し、過去に管内清掃作業員が亡くなっている工区の担当となり、まずはおはらいからスタートしました。深夜作業の現場で夜中にガス警報器が鳴り響くと、髪の毛が逆立つほどのストレスを感じました。当時、結婚が決まっていなかったら会社を辞めていたかもしれません。

 一人現場でどうすればいいか分からず、同じ工事で他社工区の所長の方々に教えを請いながら作業を進めました。各工区の良いとこ取りのおかげで一番早く竣工。周りの方々に助けられ、大変ありがたかったです。

 7年目に異動した土木本部の設計部時代に阪神淡路大震災が発生し、顧客の工場で護岸の復旧作業に携わりました。緊急時で規格にばらつきがある鋼管杭に合わせて設計するのに苦労したのを覚えています。

 若い時から責任ある立場で仕事をさせてもらいました。技術的なことだけでなく、仕事に対する責任感などを養い、逃げたり楽したりすると逆に大変になることも学びました。細かいところでけちらず、作業員を中心に働きやすい環境を整えることが、円滑な現場運営につながります。

 30代の7年間を過ごした横浜支店で学んだのは、発祥の地で他社に負けないことはもちろん、当社だけ得するのではなく、周りにも目配りすること。当社社員として仕事に対する根本的な部分を教えてもらいました。

 土木の仕事は人の生活とつながり、暮らしを助ける。だからこそ、より良いものを造り、後世に恥ずかしくないものを残すことがわれわれの使命です。若い人には頭で考える前に、体験からいろいろ学んでほしい。体で覚えたことはいつまでも忘れません。

入社1年目、ケーソン製作のため秋田港に停泊していたFDで

 (かわもり・さとし)1987年室蘭工業大学工学部土木工学科卒、東亜建設工業入社。東北支店次長、土木事業本部技術部長(現任)などを経て、2020年4月から現職。北海道出身、57歳。

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