2021年4月5日月曜日

【駆け出しのころ】川田工業取締役建築事業管掌・松崎宏之氏

 ◇チャレンジが一番の学びに◇

  いろいろな縁が重なり建築技術者の道を歩んできました。医学の道を志していましたが、セメント会社で働く父親の勧めもあって建築を学ぶことにしました。将来の目標や進路に迷った時期もありましたが、今振り返れば、チーム一丸で何かを達成することが好きだったことが、多くの建設プロジェクトに携わっていくことの動機になったと思います。

 就職活動時には、同級生より年齢が高かったこともあり「年齢不問」とあった当社の求人票に目が留まりました。入社を伝えた祖母がなぜか当社を知っており、後に栃木の地元が当社創業者の出身地と分かり驚きました。

 最初に技術本部へ配属され、海外物件の積算業務を担当。3年目に異動し、東京・赤坂の再開発事業でコンサートホールの建設現場の鉄骨建方に携わります。元請の鹿島の設計部門からは当社の施工計画に懐疑的な見方もあったようでしたが、橋梁工事などで得意とする巨大なトラスの梁を計画通りに架けることができました。

 梁は当社富山工場で製作し、建方に富山からとび職が呼ばれました。コミュニケーションに苦労する中、当社の現場所長が穏やかな口調で周りを納得させる姿に憧れたのを覚えています。

 入社5年目の時に茨城の牛久大仏の建設プロジェクトを担当。高さ120メートルの大仏の設計に2年、部材の製作・施工に5年、約7年に及んだ事業に一貫して関わります。超高層の未知なる構造物の建設に当たり、鹿島で設計部門・技師長を長年務め、定年退職された永田良夫氏を招聘(しょうへい)。実は当時の彼女の父親であり、赤坂の現場にも関わった永田氏がプロジェクトリーダーになることに驚き、ともに仕事をすることに不思議な縁を感じました。難関だった結婚のお許しは大仏の大臣認定取得前に、無事もらえました。

 常に誰もやったことがないことにチャレンジしたいと考える永田氏の薫陶を受けました。構造設計では3次元立体模型を作りながら、さまざまな難題解決に向けて試行錯誤の毎日。立像の外被となる青銅板製作が台湾の企業に分離発注されたことで、苦労がさらに増します。鋳造のイロハや中国語も学びながら、台湾に約4年通い続け、約6000枚に上る銅板外被と下地鉄骨の製作に奔走しました。

 銅板と下地鉄骨を茨城の現地に運んで地組み。形状を再度確認した上でカーテンウオールのように張り付け、徐々に大仏の姿が現れます。最後に長くはね出した両腕の先端に重さ30トンの手が付いた時には、感慨深いものがありました。

 過去に類のないプロジェクトなどでチームの気持ちを一つに取り組み、作品が残り続けることが建設業の醍醐味(だいごみ)の一つ。何事にも自らチャレンジしていくことが一番の学びになります。若い人たちには、ひるまず新しいものに立ち向かってもらいたい。

9年前、牛久大仏プロジェクトに携わった関係者らと
完成20周年の節目に(左端が松崎氏、中央は永田氏)

 (まつざき・ひろゆき)1982年東京理科大学理工学部建築学科卒、川田工業入社。建築事業部システム建築営業部長、取締役建築事業部長を経て4月から現職。栃木県出身、64歳。

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