2018年1月22日月曜日

【駆け出しのころ】春山建設専務取締役・金山太氏


 ◇会社立て直しへ戦いの日々◇

 東京の私立大学を卒業して1994年に大和ハウス工業に入社し、札幌支店でマンション販売の営業マンとして社会人の第一歩を踏み出しました。仕事を覚え、成績も残せるようになった2年半後のある日、「30歳まで外の企業で勉強して来い」と言っていた父(金山正一社長)から急きょ「あと半年で戻れ」と連絡がありました。後ろ髪を引かれる思いで97年3月31日に退社し、4月1日に春山建設(宮城県岩沼市)に入ることになりました。

 戻ってみると会社は危機的状況でした。同族企業の悪い面がまん延し、工事の受注は伸びているのに利益が上がらない。社長は、私を呼び戻すことで社を立て直す突破口を開きたかったのでしょう。

 配置部署や待遇を検討する余裕もなく、グループ企業の春山運輸に出向のような形で席を置きましたが、することが無い。翌月から94年の集中豪雨による五間堀川の激甚災害関連護岸工事の現場に回されましたが、やはり私の仕事がありません。せめて自分の給料分は働かなければと居ても立ってもいられず、現場で自らスコップを握りました。

 激甚災害の関連工事を多数受注し、過去最高の売り上げがあるにもかかわらず、利益が出ない。本来はあり得ないことです。97年といえば、折しも消費税率が5%に上がって景気が急速に悪化し、金融機関が相次いで破綻するなど先行き不透明な時代の始まりでした。経営を変えなければ会社がどうなってしまうかは明白です。社内に風穴を開けることが自分の役目だと理解し、この現場が終わった後、経理と購買を任せてもらいました。

 ここからは「若造と大人の戦い」。社内外の百戦錬磨の大人たちとの意地と意地とのぶつかり合いです。生き残りを懸け、なめられたり脅されたりしながらも決して屈しませんでした。同様に危機的状況だった春山運輸でも既得権益を必死に守ろうとする大人たちと戦い、徹底した合理化改革で管理職を刷新し、翌年の決算までには利益が出る体質に改善しました。

 2001年以降、宮城県の入札制度改革が続き、公共事業費の大幅削減も相まって多くの建設会社が倒産しました。当社でも保有する建設機械の処分が議論されましたが、オペレーターも社員、機材運搬も燃料供給もすべて自社でできることが当社の財産で、それこそが、私が見て育った「春山」そのものでした。処分を踏みとどまったことで、東日本大震災では初動対応に当たることができ、「復興のトップランナー」と呼ばれる岩沼を下支えできたのではないかと思います。

 入社後の約10年は、駆け出すと言うより立て直しへの奔走。怖いもの知らずでしたが、応援してくれる社員に支えられ、負けたくない一心と「金山家の血」に突き動かされた日々です。

 (かなやま・まさる)大和ハウス工業を経て、97年春山建設入社。00年6月春山運輸専務取締役、03年春山建設取締役、06年春山建設常務取締役、10年から春山建設専務取締役、16年から春山運輸社長。宮城県出身、47歳。

表情が険しかった春山建設入社の頃

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