2018年2月6日火曜日

【駆け出しのころ】矢作建設工業執行役員土木事業本部土木施工本部長・櫻井正典氏

 ◇完成までのストーリーを決め実行する◇

 1982年に入社し、最初に配属されたのは豊田総合事務所の土木現場でした。半年単位で現場を3カ所担当した後、入社2年目の冬に、愛知県発注の河川護岸工事に配属されました。

 所長の教育方針もあり現場事務所の設置場所の選定、資材や職人の手配、発注者との交渉、近隣住民への対応など、ほとんど1人で行うことを求められ、毎日分からないことばかりで苦労の連続でした。入社2年目の知識ではとてもすべての業務には対応できず、職長さんやオペレーターさんに教えてもらいながら、何とか工事を進めました。

 同事務所には7年間いたのですが、3年目以降も数多くの小規模な工事をほぼ1人で担当することが多かったです。そのおかげで、現場運営のノウハウが身に付きました。一方で小さな失敗も数多くしました。生コンの注文量を間違えたり、仮設道路の強度を考えずに施工し、トラックが動けなくなったり、協力会社さんへの支払額が原因で重機をすべて現場から引き揚げられたりしたこともありました。当時は社内的な教育指導というより、職人さんから叱られながら必要な知識を覚えていく。そんな時代だったのかもしれません。

 30歳の時、東京支店に異動し建設省(現国土交通省)や東京都などの工事を担当しました。建設省の工事では利根川の河川工事を担当したのですが、当時、関東近郊で当社の知名度は低く、資材メーカーなどに発注をお願いする際も会社のパンフレットを持参し、会社概要を説明しながら取引に応じてもらう状況でした。会社名を「弓矢の矢に、作で矢作(やはぎ)です」というのが口癖になっていて、ある日、同僚から「おまえ寝言でも同じことを言っていたぞ」と笑われました。東京支店には5年在籍したのですが、地元を離れ、外からわが社を見るという意味では良い経験でした。

 その後、名古屋に戻り、新東名高速道路工事や伊豆縦貫道工事を担当しました。伊豆縦貫道工事では建設地からダイオキシンが見つかり、その処理方法の検討や地元説明に東奔西走したことが印象に残っています。

 現場に約25年間勤務し、強く感じていることは「人対人」をどう学ぶかです。困難な状況に置かれても、コミュニケーションがきちんとできれば必ず先が見えてくる。それと、技術者にとって、工事をどう完成させるかというストーリーを描けるだけの構想力と、最後まで貫き通せる実行力が必要になります。

 当社は生産性向上や働き方改革などに対応するため、社を挙げて現場の改革に取り組んでおり、IoT(モノのインターネット)や機械化施工を進めていきます。同時に、それらの基本的な部分は現場技術者が担っていますので、ACT活動と称して「当たり前のことを ちゃんと 取り組む」活動を展開中です。そのためにも、若い技術者には地道にこつこつと経験を積み重ね、基本をしっかり学んでほしいと思っています。

 (さくらい・まさのり)1982年日大理工学部卒、矢作建設工業入社。施工統括本部土木施工部長、執行役員土木事業カンパニー施工本部長などを経て、16年4月から現職。岐阜県出身。60歳。

若い頃は現場が代わるたびに家族を帯同していた

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