2019年12月9日月曜日

【駆け出しのころ】川田工業執行役員鋼構造事業部副事業部長・内海靖氏

 ◇深く考え成長の糧に◇

 コンピューターによる構造解析を専門とする大学時代の恩師が川田工業との関わりが深く紹介されて入社することになりました。それまで橋梁もゼネコンがやっていると思い、橋梁メーカーのことは知りませんでした。

 学問と仕事の知識は別物で、駆け出しのころは先輩たちに教えてもらったり、文献を読んだりしながら必死についていったことが思い出されます。大型コンピューターが出始めたころで汎用(はんよう)ソフトがあまりなかったため、自分たちで理論を勉強してプログラムを作成していました。当時は本四架橋の事業が動きだしたばかり。将来に備え、プログラムでつり橋の構造解析などに従事しました。

 大学まで実家で暮らし、入社早々の大阪の寮生活では社会人としていろいろ学びました。1年後に東京へ戻り、本四架橋対応の専門部署に配属されましたが、8カ月ほど因島大橋の補剛桁の現場に勤務しました。大型コンピューターの端末を導入した国内では例のない現場で、実際の架設作業で形状や応力の変化をリアルタイムで計算しながら施工管理の高度化に取り組みました。

 現場ではJVの他社の技術者からも学ぶことは多いです。同世代の人たちとは切磋琢磨(せっさたくま)し、橋について語り合う中で橋をより好きになっていきました。

 明石海峡大橋はいろいろな面で転機となった大プロジェクトです。世界に例のない規模の工事となるため、設計業務では20社から約35人が神戸に集まり、毎日夜遅くまで検討しました。

 施工中には阪神・淡路大震災が発生。当時住んでいたマンションは無事でしたが、大きな揺れに襲われた時は自分も橋もだめだろうと思いました。発災後、自宅から橋の主塔が倒れずに立っていた姿を見た時は安心しました。さまざまな苦労はありましたが、完成した時は大きな喜びと同時に、プロジェクトを離れる寂しさも感じました。

 人の移動や物流など交通の便をよくする橋は、周囲との景観も重要であり、構造物としての魅力にもなります。既設の橋を先人たちがどういう考えで設計し、工夫しているのかといったことに思いをはせることは面白く、こうした視点は今の技術者が成長するための糧となります。

 ものの表面だけを見て、結論づけて進むのは危険です。ものができあがる過程を想像しながらどういう思いで造り上げられたのか。そこまで深く考えれば、おそらく間違うことはありません。

 若い人たちには何より仕事を好きになってもらいたい。好きならつらいことがあっても乗り越えられます。つり橋など特殊構造の橋梁の新設工事は激減していますが、長年培われた技術や考え方を継承するためにも、学びの場を増やしていければと考えています。

入社13年目ころ。明石海峡大橋のJV関係者と
(後列右から2人目が本人)
(うちうみ・やすし)1981年法政大学工学部土木工学科卒、川田工業入社。タコマプロジェクト室や鋼構造事業部橋梁企画室などを経て2017年6月から現職。神奈川県出身、60歳。

0 コメント :

コメントを投稿