修復を終えた常磐橋(鉄建建設提供) |
日本橋川に架かる石造りのアーチ橋「常磐橋」(東京都千代田区)。明治期に都内で架かった13の石橋のうち、唯一現存する橋で1928年に国の史跡に指定された。関東大震災や戦災を乗り越えてきたが東日本大震災の被害は大きく、橋を管理する千代田区は解体修復を決断。橋の構造も分からないまま始まった難工事は8年にも及んだ。手作業で一つ一つ丁寧に積み上げられた石橋。竣工当時の姿を取り戻し、5月に通行が可能になった。
常磐橋は1590年に木造の橋として架けられた。江戸時代には奥州街道から江戸城の大手門へと向かうルートだった。区学芸員の篠原杏奈氏は「当時の交通の要衝。『外郭の正門』とも呼ばれ、歴史的な価値が高い」と説く。
1877年に小石川門の石垣を転用し、2連のアーチを描く石橋に改築された。区学芸員の相場峻氏によると、九州で盛んに用いられていた伝統的な工法で「東京には明治時代に入ってきた。当時は目新しさがあった」。唐草模様を施した高欄の手すりや、八角形の大理石の親柱など装飾も特徴的。相場氏は「見栄えを意識した造り。維新後の華やかな東京というイメージが強くあったのではないか」と分析している。
東日本大震災は都心にも深い爪痕を残した。被災した常磐橋はアーチ状に組み上げられた橋側面の「輪石」が約8センチずれて路面が陥没し、崩落の危険性が高まった。千代田区(発注者)は文化財保存計画協会(設計者)、鉄建建設(施工者)と共に修復事業で竣工時のアーチ橋の姿を復元することを目指した。
竣工当時の姿を取り戻すため、慎重に復元作業を進めた(鉄建建設提供) |
橋の構造を示す資料はなく、石材を一つ一つ解体しながら構造などを調べ、図面を起こした。鉄建建設の森部広邦氏(元常磐橋作業所長)は「橋には完成当時から構造的な弱点があった」と指摘する。激動の明治時代のさなか完成を急いだためか、石垣を転用した石材はふぞろいな形状で輪石同士の力を伝えにくい構造だった。地震時に石橋の挙動を拘束するための反力石がないことも分かった。
復元に当たり「できるだけ明治時代の工法を生かすよう設計者と協議しながら進めた」と森部氏。修復工事では隣り合った石材間の力の伝達を現代技術で補いながらも、完成時と同じく、石材を一つ一つ積み上げる「空石積み」を採用した。
アーチ橋は台形の石材を組み合わせることで構造体を築く。石材の組み直し作業では橋の裏側にジャッキを設置し、2段階で下ろす工程を採用。1回目は下から1列目の台形石材を組み合わせてジャッキを緩め、かみ合わせる。隙間に流動性の高い超高強度モルタルを充填した。石材を組み、橋全体に力を伝達できるようになった段階で2回目のジャッキダウン。構造体を一体化した。
文化財は修復で新しい石を3割以上使用すると、その価値を失う。このため約6000個に上る石材一つ一つに番号をふり、加工や修繕の記録をすべて残した。石の加工や積み上げは城の石垣などを手掛ける石工職人が従事。熊本地震で被災した熊本城の石垣復旧と時期が重なり、東日本を中心に職人を集めた。1日当たり30人ほどが現場に入り、手作業で一つ一つ積み上げる作業は3年にも及んだ。
外観は竣工当時の写真や絵はがき、錦絵などを参考に再現した。戦時中の金属供出で失われたままだった鉄製の手すりを復元。当時の鋳物の風合いを再現するため塗装はせず、菜種油を塗ってさびを発生させては落とすという工程を半年間繰り返した。変形したり、流されたりしていた橋脚部の「水切石」も復活。写真を参考にモックアップ(部分の原寸模型)を製作するなど細部にもこだわった。
石に最小限の調整を加えながら一つ一つ積み上げていった(鉄建建設提供) |
解体に3年半、修復は4年半の計8年を費やした。当初予定していた5年を大きく上回る長期プロジェクトとなった。森部氏は「文化財を扱うのは発注者や作業員にとっても経験のないことだった。みんなで試行錯誤しながら進めていた」と振り返る。
完成した石橋について篠原氏は「錦絵に描かれていた当時の姿を現代に見ることができるのは感慨深い」と喜びもひとしお。区は年度内にも橋の保存・活用計画を策定する方針で、相場氏は「多くの方が触って歩ける文化財として、どんな活用ができるかを考えていきたい」と意気込む。
常磐橋の上を通る首都高速道路の地下化事業や、日本一高いビルが計画されている大規模開発など、橋周辺はドラスチックに変化しようとしている。明治維新のシンボルとして誕生し、街を見守ってきた常磐橋。装いを新たに再び歴史を刻んでいくことになる。
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