2021年11月22日月曜日

【駆け出しのころ】日本道路取締役兼常務執行役員営業本部長兼海外事業担当・伊藤馨氏

 ◇何事も目標を持って挑戦◇

 小さい頃からものづくりに興味があり、大学進学で迷わず土木を専攻しました。就職活動では大学推薦でゼネコンと道路会社、建設コンサルタント会社の紹介を受けました。デスクワークは性格に合わないと思い、道路会社大手で将来性を感じた当社に入社しました。

 配属先は東京23区を管轄する当時の東京営業所。夜間工事が多く全国で一番過酷な職場と聞いていました。先輩から「ここで耐えればどこでも働ける」と言われ、不安と同時に頑張るぞという気持ちになりました。1年目に本格的に担当した工事は首都高速3号線の切削オーバーレイ。夜間の1車線規制工事で現場の真横を車が猛スピードで駆け抜けていきます。命懸けでしたが、初めての経験に楽しさも感じました。「技術は現場で学ぶ」が当時のスタンス。先輩の姿を見たり仕様書を読んだりして、どうすればいいかを考える。分からなければ先輩に聞くという毎日を過ごしました。

 次に担当したのは渋谷駅前を走る国道の舗装打ち換え工事です。当時は協力会社の作業員と一緒に泥だらけになって仕事をする機会も結構ありました。仕事のつらさや段取り、作業員に指示する上でも実体験がないと分からないことが多く非常に勉強になりました。

 夜間規制工事は仕事の段取りが全てです。当時は携帯電話などなく、業者に材料を手配するにしても場所や時間などを綿密に計画しなければなりません。材料の搬入が遅れると規制解除時間に影響し大問題になります。とにかく段取り最優先で工事に当たりました。

 過酷な都内の工事に7年間従事することになります。段取りを優先するあまり技術や品質に関わる仕事が十分経験できず、技術者として不安を感じ始めました。「春先の閑散期に短期間だけでも試験所で品質管理を経験したい」と支店長に直談判したところ、8年目に技術研究所へ異動となりました。材料の研究開発などを担当し物事を客観的、多面的に捉え考察する大切さを学びました。技術部門の方々とつながりができたことも財産になりました。

 4年後に旧横浜支店で現場復帰しました。所長として携わった小田原競輪場の全面改修が思い出に残る工事です。技研時代にマレーシアで同様の工事を経験したおかげで、難易度が高い工事がスムーズに行えました。段取りだけでなく技術や品質も考察する気持ちのゆとりもできました。そういった意味でも技研での経験は大きな転機です。

 入社当時から支店長になることが目標でした。そこにたどり着くまで苦労の連続。辞めたいと思ったことは何度もありますが「途中で挫折すれば負けだ」と自分に言い聞かせてきました。若者もしっかり目標を定め、今の立場で何をすべきかを考え挑戦してほしい。そうすれば一見つまらなそうに思える仕事も楽しみが見つかります。最近は明確なビジョンを持った若者が多く頼もしく思います。

入社12年目、現場復帰した旧横浜支店で

 (いとう・かおる)1985年横浜国立大学工学部土木工学科卒、日本道路入社。東京支店千葉営業所長、東北支店工事部長、同支店次長、生産技術本部工事部長、執行役員中部支店長、常務執行役員営業本部長、2019年6月から現職。東京都出身、58歳。

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