2019年7月1日月曜日

【駆け出しのころ】熊谷組執行役員建築事業本部副本部長兼営業統括部長・山下雅人氏

 ◇目線上げ前進するDNA継承◇

 田舎育ちだったので国際的な仕事に憧れ、海外で仕事をしてみたいと考えていました。就職活動で紹介された熊谷組は当時、海外事業を積極的に展開しており、建設会社というダイナミックな仕事も面白そうだなと思いました。

 入社後いきなり4カ月ほどの英語研修に入り、日本語を話したら罰金を取られるほど。寮も英語研修生ばかりで英語漬けの毎日を送り、そこそこ英語を話せるようになりました。

 さあ海外勤務だと思っていたら、海外事業の風向きが一変。上司からは「数年後には海外で仕事もできるだろうから、まずは大阪に行って現場のことなどを勉強してこい」と送り出されました。しかし、その後、昨年までの三十数年間、関西での勤務が続きました。

 海外に行く機会には恵まれなかったですが、大阪ではいろいろ経験をさせてもらいました。最初に配属された豊中出張所は職員が100人ほど在籍し、現場数も多く、忙しい職場でした。新人の事務職の配属は約10年ぶり。厳しい環境でしたが皆さんにいろいろな面で面倒を見てもらいました。

 若手が少ないから30歳ごろまでは現場や出張所を走り回り、その場で事務系の自分が役に立つことを考え、できることは何でもやってきました。いろいろな人たちと付き合い、そこでの経験は自分が成長する上で大きな糧になったと思います。

 入社9年目に営業職へ移りました。お客さまや設計事務所の方といろいろな話をする営業職には、さまざまな知識・情報が求められ、日頃からの勉強が大切だと身をもって感じています。

 出先の部署では確たるお客さんもいないため、地元の方々への地道な営業を続けました。その時、農地に商業施設を整備する共同事業の情報を得て、右も左も分からない中で土地の仕込み段階から携わりました。オープニングパーティーで地主さんや商業者の方々が喜んでくれたこの経験が、営業マンとしてのベースになっています。

 常に億単位の金額ベースで、現物のない建設プロジェクトを売る営業は、普通の商品の売買とは違います。出来上がるまでに多くの技術者や作業員が働き、完成した建物を多くの人たちが使う。ゼロから造り上げるダイナミックで面白みのある仕事です。建設需要が激減し、厳しい経営環境が続いた時期もありましたが、それぞれのステージで周りにいた人たちに恵まれたのか、不思議と会社を辞めようとは思いませんでした。

 問題・課題にぶつかった時、できない理由を探すのではなく、目線を上げて常にできると考え、前に進むことが大切です。失敗も次につながるプロセスの一つ。「抜けないトンネルはない」という熊谷組のDNAを、若い人たちに受け継いでもらいたいです。

入社11面ごろ、当時の大阪支店営業部で
(やました・まさと)1985年明治大学経営学部経営学科卒、熊谷組入社。関西支店副支店長などを経て2018年4月から現職。07年に立命館大学大学院テクノロジー・マネジメント研究科修了。石川県出身、58歳。

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