2016年11月28日月曜日

【駆け出しのころ】竹中土木常務執行役員・藤井義文氏

 ◇自分で選んだ道だから◇

 小さいころから学校の体育と図工が得意で、運動したり物を造ったりすることが好きでした。建設業に魅力を感じたのは、高校生の時に映画『黒部の太陽』を見たのがきっかけです。

 土木の現場で直接仕事がしたいと思い、就職はゼネコンを選びました。親からは現場の仕事は危ないし、イメージも悪いと反対されましたが、自分で決めたことです。気持ちは変わりませんでした。

 入社1年目に二つの現場で研修した後、2年目に新潟県内の高速道路工事現場に配属されます。4月初め、辞令が出てその現場へ上越線に乗って向かう途中、新清水トンネルを抜けて新潟・湯沢に出ると真っ白な雪の世界でした。それまでは「よしやるぞ」と意気込んでいたのですが、関西育ちの自分が雪国で仕事と生活ができるのかと急に不安になったのを思い出します。

 この現場で働いている時、「五六(ごうろく)豪雪」に見舞われました。年末年始の休み期間中、独身だった私一人が現場に残り、10日間ほど事務所で過ごしたことがあります。積もった雪で窓が開けられないほどの大雪で、冷蔵庫にある物を食べながら皆が戻ってくるのを待ちました。正月明けに交代で休みをもらえたものの、実家に帰るまでの道のりも大変でした。

 それから群馬県内の高速道路工事も担当しました。入社5、6年目となり、役所との協議などを行う工務の仕事が増え、現場が楽しくなり始めたころです。会社から突然、技術研究所への異動を打診されました。この時は大学で取り組んだ研究をなぜまたやらなければいけないのかという思いが強く、一度はお断りしたのですが、社命を受けて研究所勤務となりました。

 研究所では、現場で苦労した軟弱地盤のことを勉強し、大学で習った土質力学があらためて理解できました。その後、本社の技術開発部門に在籍し、シールド工事や環境関連の技術開発に携わりました。

 私は社会人になって阪神大震災、東日本大震災という二つの大きな震災に遭遇しました。これから土木を目指す人も必ず生きている間に大きな震災や災害を経験するでしょう。その時、技術者として社会に役立つ人材になってほしいと期待します。大規模修繕の時代を迎え、これからは壊して作る高度な技術が求められます。労働者が減少する中、生産性向上など新しい技術開発も欠かせません。知恵を絞り、夢を持って建設業界で仕事をしてほしいと思います。

 かつて「コンクリートから人へ」と叫ばれ、自信と誇りを失っていたころ、建設業に就職したいという息子の考えを聞いて、私は親として一応反対しました。でも、私と同じように自分で選んだ道であり、今は違う会社の建設現場で働いています。

 (ふじい・よしふみ)1978年京大大学院(土木工学)修了、竹中土木入社。技術開発部長、営業本部エンジニアリング部長、九州支店長、執行役員などを経て、15年から現職。三重県出身、64歳。

技研勤務時代、マレーシアからの留学生二人と半年ほど行動を共にした
(右端が本人)

0 コメント :

コメントを投稿