多くのトンネル工事の実績を持つ笹島建設の創業者で、映画『黒部の太陽』の主人公のモデルにもなった同社会長の笹島信義(ささじま・のぶよし)氏が1日、死去した。99歳だった。通夜は9日午後6時30分、葬儀・告別式(社葬)は10日午前10時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は孫の昭人(あきひと)氏。
1917(大正6)年10月富山県入善町生まれ。43年に26歳で神奈川県の津久井発電所建設工事を熊谷組から請け負い、初めて土建業に従事した。2年後の45年に熊谷組笹島班を組織、64年笹島建設を設立して社長に就任。90年会長。トンネル施工を通じて日本の国土発展に尽力し、今日に至るまで熊谷組のパートナーとして共に歩んできた。2013年瑞宝単光章受章。
日本の土木史上に残る難工事だった黒部川第四発電所第3工区大町ルート・黒部ルート建設工事には、熊谷組笹島班の班長として従事。後に映画化された『黒部の太陽』では、主人公(熊谷組岩岡班の岩岡班長)のモデルになったことでも知られる。
1957年5月に大町ルートで大破砕帯に遭遇し、同年12月に突破するまで必死に立ち向かったことなどの記憶は脳裏に焼き付き、日刊建設工業新聞のインタビューでは「貫通した瞬間は喜びを通り越して、みんながボーっとしていた。黒部から吹いてきた風が坑内の粉じんを吹き払い、視界が透き通っていく。うれしさと虚脱感が混じった不思議な感覚だった」(2008年12月11日付)と当時を振り返った。
笹島信義氏が死去について、熊谷組の大田弘相談役が次のようなコメントを寄せた。
不可能と言われたクロヨンでの破砕帯突破以来、青函トンネル、東京アクアラインなど、日本を代表する数々の難工事を乗り越えてきた笹島信義氏の不撓(ふとう)不屈の精神は今後も語り継がれていくことだろう。その生きざまは、困難に直面した時のリーダーとしての立ち居振る舞い方、他人(ひと)をおもんぱかることの大切さを思い起こせ、と建設業界に従事する者のみならず、現代を生きる多くの人々に教え続けてくれた。土木界の巨星は今、燦然(さんぜん)と輝く「土木の太陽」となって、永遠にわれわれを照らし続けてくれることだろう。心よりご冥福をお祈りする。
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