東日本大震災で抱いた疑問や感情を忘れてはいけない… |
「大学で建築を学ぶまでは、『構造』という分野があることすら知らなかった」。構造設計事務所で15年以上のキャリアを積み上げてきた後藤信二さん(仮称)は、そう振り返る。構造分野の研究室を選択した理由も構造が嫌いではなかったからだ。
住宅を設計する建築家に憧れ、設計課題にも一生懸命に取り組んだが、「設計課題をすればするほど自然に構造が気になり始め、構造を知れば知るほど奥が深く、楽しかった」。構造の先生に「将来は構造設計をしたい」と伝えると、「これからの構造設計は振動のことを知らないと駄目だよ」と言われた。卒業論文、修士論文の研究は、振動台実験と振動解析の毎日だった。
就職は偶然知った構造設計事務所。ここで構造家人生の道しるべとなる所長と出会った。就職した当初、事務所の創設者でもある所長から、構造とは、構造家とは、仕事とはなど一から教えてもらった。「とにかく毎日のように怒られていましたね」。
決して順風満帆な構造家人生のスタートではなかったが、「今考えると当時は何も知らなかった、分からなかったということ。所長の言動の根底には建物に対する強い思いと、社会に対する責任が常にあった」。
入社以来、住宅から大規模施設まで多様な構造設計に携わってきた。構造設計と格闘していた2011年3月11日。東日本大震災が起きた。「安全ではないものを創ろうとする構造家はいない。もし自分が関わった建物が被災して多くの犠牲者が出ていたら、構造家であることを辞めていたかもしれない…」。構造家という視点ではなく、「もっと人として、この地に生きる人のことを考えなくてはいけない」。
そんなことを感じていたころ、母校で建築設計の非常勤講師を始めた。「学生時代に起きた阪神大震災の衝撃は今でも覚えている。多少仕事を覚えた現在から見ると、当時の自分は人ごととしか感じていなかった。本当に恥ずかしいと思っている」。
だからこそ今の学生たちには、「東日本大震災で感じた疑問や感情を覚えたまま社会に出て、自身の仕事の有意性とは何かを考えながら働いてほしい」と伝えている。
「構造とは」という所長の問い掛けに、「技術面、経済面はもちろん、将来的な社会の変化に対応し、合理的で美しいもの」と持論を展開。さらに「多くの建物は自分の命よりも長く、社会に存在し続ける。構造にも意匠にも共通して求められるのは、その先の社会や、使う人・住まう人の変化を想像することだと思う」と答えた。
3年前、所長が鬼籍に入り、事務所を引き継ぐことになった。「小規模でも魅力のある事務所を創り上げていく。将来的には多くても8人くらいの優れたスタッフで、フットワークよく、ものづくりに参加していきたい」。経営者としての顔も少しずつ出てきた。「所長がそうだったように、ただの構造技術者ではなく、構造の得意な建築家でありたい」。
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